石仏とふれあう里 となみ野 第4回

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第4回 砺波地方の石仏探訪 ≪スクーリング資料≫

石仏と石工さんの心に学ぶ

  • 日時:平成16年1月24日(土)午後2時より
  • 集合場所:庄川町ふれあいセンター

コース(1) 恵水園(通称一本橋)

地蔵 高さ74センチ・幅47センチ
石材は金屋石で台座には「文化十四年 右高岡 法界万靈 左井波」とある

祭日は8月18日

お堂も非常に立派である

伝承によると、金屋に庄兵衛という人がいて、この人は生まれつきたいへんまじめな人で、常日頃腕を磨いて立派な石工になろうと思い、師とする名工を四方に尋ねていた。そのころ越前の国に有名な石工がいることを知りその弟子となり、数年間神仏の彫刻技術を学んだ。帰郷後のある夜、夢のお告げを受けて、一日に一体の割合で千体の仏像を刻もうと発願された。そして一意専心作業に没頭していたある夜、まだ出来上がっていない地蔵様が「ああ、痛い、痛い」と二声お出しになった。庄兵衛はたいへん驚き「あら不思議なこともあるものだ」と思い、時刻を見たら十二時を過ぎていたので、「さてさて、勿体なや」と作業をやめて熟睡した。以後仕上げの作業をやめてそそまま安置されたのが、この地蔵様であると伝えられている。

庄兵衛
初代栄次郎の親にあたる庄兵衛もまた、優れた石工であった。文政七年「井波町石屋平蔵の倅平作と、庄兵衛とその弟栄次郎・清次郎との石切場をめぐるトラブルを訴えた文書」ここでは、岩黒金屋村の庄兵衛と清次郎の名が見える。庄兵衛は砺波市太田金比羅社の灯籠には「天保二年辛卯五月建之石工京坂庄兵衛」とまた同じく太田に中筋往来の三十三カ所観音の内三十一番千手観音に「石工金屋庄兵衛安政二載二月施主安念安兵衛」とある。
『山田村史下巻』(十一頁)に、山田村鍋谷の牛嶽社の「牛嶽大明神本宮」再建に係る棟札が掲載されている。それは次のようにある。

時天保第十五年甲辰九月廿五日村肝煎善兵衛
組合頭利兵衛
同五郎助
奉再興牛嶽山三津賀峯霊場牛嶽大明神本宮婦負郡鍋谷村産神
石工砺波郡金屋村庄兵衛
総取持願主同河内村九郎兵衛
当山奉仕神主施基皇六十三代後胤従五位下
藤井豊前守砺波宿祢秀猶謹九拝

これは、金屋村庄兵衛が鍋谷村牛嶽社のご神体を作ったことを棟札に掲げたものである。
またこの庄兵衛について次のような文書が庄川町金屋の真言宗日照庵に残されてある。

『青島村地蔵尊縁記』
抑抑当所ニ安置奉リシ尊像ノ由来ヲ委シク尋ヌルニ、文化十四年今ヨリ一百年以前、金屋村ニ森川庄兵衛ト申ス者アリ。此人ハ天性至テ篤実ニシテ。常ニ有名ノ石工ト成ラント思イ、四方到ル所ニ名工ヲ尋ネシニ、其頃越前ノ國ニ有名ナル某石工アリ。此石工ニ就キテ数年間佛神彫刻ノ術ヲ伝修業シテ皈宅セシニ、或夜夢ノ御告ヲ蒙ッテ、一日二一体ツヽ千日ヲ経テ我レ一千体ノ佛像ヲ彫刻セントノ大願ヲ発シテ、茲ニ始メテ尊像ノ彫刻ニ着手スルヤ、一心専念ニ彫刻セシニ、此尊体未ダ十分成ラザルニ、嗚呼痛ヒ痛ヒト二声発シ玉ヒバ、庄兵衛大ニ驚キ、アラ不思議ト思ヒ、時間ヲ聞クニ既ニ午後十二時ヲ経過シタリ。扠テ扠テ御勿体ナヤト其レ成リニシテ済シ置キシ尊像ハ忝モコノ地蔵大菩薩ナリ。
(中略)
大正五年八月

この文書は、庄川町青島村の一本橋のほとりにある地蔵様の祭りの時に、今でも読み上げられる「地蔵縁起」である。これによると、この地蔵の製作者は森川庄兵衛で、彼は一千体の佛像を彫るという大願を発して、まず一体目に彫ったのがこの地蔵だという。典拠は明らかでないが、彼は「文化十四年」に「越前の国の有名な某石工」に佛神彫刻を学んだという。

コース(2) 日照院

  • 高野山真言宗千光寺末
  • 糸数貫宏(6世)
  • 本尊は大日如来
  • 由緒 元金屋字松の下甚左(斉藤)の娘、真言宗に帰依し芹谷山千光寺道場にて得度、生家甚左の隣に草庵を開基、以後専心本宗教化に勤む。本村尼寺の創始なり。開基慈忍清遊法尼 文久元年寂す。昭和十一年四月本堂再建。
  • 石仏は数体。明治の名工森川栄次郎作もある。

森川栄次郎の生涯

墓碑
森川栄次郎の生涯を知るには、庄川町岩黒の金屋共同墓地の森川家の墓碑である。
この墓は「紀元二千五百九十四年(昭和九年)四月建之三代目森川栄吉分家太七仝辰蔵 」とあり、墓碑には次のようにある。

森川翁墓碑
森川翁通称栄次郎、生於茶木村。幼頴悟挙上抜群。石匠準慶使養継同姓栄次郎之後更與準慶之名。翁、平素執刀、屹々不倦刻佛像。一生及所作一千餘躯。篤信禮佛、一聞教義、終生不忘。而寡言力行、人以取範。明治丗六年、春初、詠辞世和歌。豫如知死期。四月四日其所作太子尊像、偶有流汗之事。家人異之。翁翌五日、念佛精進如眠、終遂大往生。嗣子栄吉、建墓予記平生之一端。乃書以應之昭和甲戌歳孟秋龍國山主量性撰并書六六之年を迎へて六十五能利を聞く外何か思はん
(書き下し文)
森川翁通称栄次郎、茶木村に於て生れる。幼くして頴悟、挙止抜群。石匠準慶、使い養いて同姓を継がしむ。栄次郎の後の、更に準慶の名を與う。翁、平素刀を執れば、屹々として倦まず佛像を刻む。一生作る所一千餘躯に及ぶ。
篤く禮佛を信じ、一たび教義を聞けば、終生忘れず。而して寡言力行、人以て範を取る。明治丗六年春初め、辞世の和歌を詠む。豫め死期を知れる如し。四月四日、其の作る所の太子尊像、偶々汗を流す事あり。家人之異とす。翁、其翌五日、念佛精進して眠るが如く、終に大往生を遂げる。
嗣子栄吉、墓を建てるに、予に平生の一端を記すことを請う。乃ち書きて以て之に應ず。
昭和甲戌孟秋龍國山主量性撰并書
(九年初秋)(西蓮寺)
六六の年を迎えて六十五のりを聞く外何か思はん

この墓碑によって、森川栄次郎は砺波郡茶木村(現砺波市茶木)の生れで、森川家に養子に入ったことがわかる。そして一生の間一千体の石仏を刻み、信仰心に篤く明治三十六年四月五日に六十五歳で亡くなっている。和歌の「六六」とは、明治三十六年のことであり、六字の名号も意味しているのであろう。

その生涯
天保十年(一八三九)に茶木村の谷内家に生れ、幼少期に金屋村(現庄川町金屋)の石工栄次郎に弟子入りし、石工としての腕をかわれ森川家の養子となり、のちに二代目栄次郎を襲名した。
その仕事ぶりは実直謹言、無駄なことはなにひとつしゃべらず、ひたすら彫ることに没頭したといわれている。(茶木の隣村願成寺八世住職嶺秀さん談)千体の石仏を彫ったとされる栄次郎であるが、石仏に銘の入ったものは下記の通りであまり多くはない。
十体に銘が彫られてある。これはすべて一メ-トル以上の大きい作品で、砺波市井栗谷の不動明王は二百四十メ-トルにも達し、栄次郎にとっては自信作のものであっただろうと思われる。

  • 明治十七年(一八八四)四十六歳十一面観音(庄川町金屋西野)
  • 十八年(一八八五)四十七歳十一面観音(砺波市秋元観音堂)
  • 十八年(一八八五)四十七歳不動明王(砺波市太田萬福寺)
  • 二十二年(一八八九)五十一歳不動明王(砺波市東別所)
  • 二十三年(一八九0)五十二歳十一面観音(砺波市石丸)
  • 二十七年(一八九四)五十六歳不動明王(砺波市井栗谷)
  • 二十八年(一八九五)五十七歳不動明王(井波町東城寺八幡社)
  • 二十九年(一八九六)五十八歳不動明王(井波町沖神明社)
  • 三十一年(一八九八)六十歳十一面観音(井波町今里)
  • 三十二年(一八九九)六十一歳不動明王(庄川町岩黒瓜割清水)

コース(3) 道端の石仏

途中には六地蔵やお堂に入った石仏に出会うことがある。

コース(4) 現代の石工

水本一太郎氏

水本一太郎の刻んだほとけ
雪深い北陸の片田舎庄川町で、小さい工房で黙々と制作に励む石工水本一太郎氏がいる。大正十五年一月に生まれ、海軍に志願兵として入隊し、敗戦後家業の石屋を継いだ。井波彫刻の野村仁三郎に師事し、石造彫刻の道に入った。石仏は利賀村高沼に昭和六十年に不動明王を制作したのを皮切りに、今まで約二百体の石仏を建立してきた。
庄川町は、庄川が山間地から平野部に抜ける地点にあたり、庄川扇状地の要にあたるところにある。その金屋村から緑色凝灰岩(金屋石)が採掘され、江戸時代中期から多くの石工達が活躍したところでもある。金沢城の辰己用水の樋石や石管などに使われている。

明治初期には千体の石仏を彫ったとされる森川栄次郎や多くの名工を輩出しているのである。明治二十五年には四十九人の石材工や木工業にたずさわる職人がいたが、現在は水本氏を含む二店しか石材店がない。

水本氏は、採掘されていない良質の金屋石を若干保持しているので、それを石仏の制作に充てているが、その量は限りがある。
石仏の刻むその姿は森川を彷彿させるかのように真摯に対しておられ、頭の下がる思いである。
砺波市安川の臨済宗薬勝寺境内に石造五百羅漢があるが、その内百三十体が氏の手にかかるものである。また庄川町庄の道端、小牧の旅館和園前にも観音像が安置されている。

兵役の経験のある水本氏は、昨年鹿児島県知覧町の特攻基地跡地に「特攻隊員の霊を慰めたい」と、白衣観音を寄贈され、特攻隊員が出撃前に寝泊まりした三角兵舎の入口に置かれた。庄川町の庄と知覧町の知をとり、「庄覧平和観音」と名付けられた。
また日本石仏協会の一泊見学会で来訪された方からも、その観音様に感動され一体関東の方へお連れになられた。

金屋の石工

金屋の石工の名が出るのが、前述の文政七年「井波町石屋平蔵の倅平作と、庄兵衛とその弟栄次郎・清次郎との石切場をめぐるトラブルを訴えた文書」ここでは、岩黒金屋村の庄兵衛と清次郎の名が見える。庄兵衛は砺波市太田金比羅社の灯籠には「天保二年京坂庄兵衛」とある。

『庄川町史』所収の弘化二年(一八四五)「村々諸商売書出帳」(現物は実見していない)によると、金屋岩黒村には伊右衛門・六兵衛・与三郎・伝右衛門・兵三郎・庄兵衛・久次郎・栄次郎の八軒の石屋があったとされている。
また「金屋石の採掘は、天保年間に始められたと推測されるとある。
その後天保十四年以来、金沢城修築工事の際に樋石として採用されている。また天保十年から約十年がかりで成功させた、黒部市・宇奈月の十二貫用水・竜の口用水の石管も金屋石が使用された。
石仏に関しては、安政二年(一八五五)に砺波市太田中筋往来に金屋庄兵衛が十一面観音を作っている。

明治期になると、金屋石の需要が増え大きく進展をとげるようになる。明治十二年には金屋岩黒村には、石工や木工業にたずさわる職人が十八人であるが、二十五年には四十九人に増加している。大正に入っては、金屋石材株式会社が設立され、最盛期には二十八人の職工組員がいた。しかし昭和五年三月には解散し、昭和十二年には自然消滅をしたといわれる。
戦後は、金沢城の石川門の修復工事や二十五年七月の県営富山球場のスタンド外側の一部に金屋石が使われているが、その後はコンクリ-トが建築資材に使われたり、輸入石材が安く入り、現在ではほとんど採掘がされていない状態である。

(参考)富山県の石仏

数年前に富山県砺波地方を中心に、全国の石仏研究者や愛好者が大挙して訪れられた。石仏研究の団体「日本石仏協会」の面々約五十名である。そこで多くの方々が、この地方の石仏のすばらしさを強調して行かれた。そこには外交辞令でない本心が述べられていたのである。
まず石仏が散居村の風景に溶け込んでいる景観、各石仏にはほとんどが堂に入り、生き生きとした花が手向けてあり信仰が生きている。また一生の間に石仏を一千体造ったとされる明治の名工森川栄次郎の緻密な作に驚嘆されたものである。信州の道祖神群以上の魅力があるとされ、地元で説明役をかってでた私としては勉強不足で赤面ばかりであった。それから1年後この協会の創立25周年記念石仏講座が東京大正大学開かれ「東西文化の接点・北陸の石仏」について公演をする機会に恵まれ、北陸の石仏や富山県の石仏のあり様に関心が向くようになった。

北陸は特に富山県は東西文化、つまり関東文化圏と関西文化圏の接点であることは周知のとおりである。フォッサマグナの地質学に象徴されるように社会・経済・文化の差異が認められるのである。方言や衣生活・民家・年中行事また雑煮の餅の形まで民俗学的にこの東西文化の違いがあり、富山県は両方の文化を混在的に影響を受けているといわれている。

さて石仏では県東部は、新潟県方面の影響を受け青面金剛の庚申信仰が見うけられ、これは関東の文化の影響である。神通川流域には道祖神が多くあり、これは群馬や信州、そして飛騨を経由した関東文化の移入が認められる。県西部の砺波地方は弥陀一仏の真宗王国であるが、地蔵の造立が際立って多い、庚申信仰は薄く、道祖神などの民間信仰がほとんどない。これは関西系なのかもしれない。

ところで私のフィルドである砺波地方の石仏の特徴について若干述べておきたい。

  1. 地蔵の造立が多い。
  2. 幕末から明治期にかけて爆発的に造立される。
  3. 石材は地元庄川町金屋から採掘される緑色凝灰岩を使用している。
  4. 石仏の管理者が周知されている。
  5. 地蔵祭りが継承されている。
  6. 路傍の石仏でありながら、ほとんどがお堂に入っている。
  7. 井波町瑞泉寺太子堂に安置される聖徳太子南無二歳像の模刻石仏が多い。
  8. 真宗王国でありながら、石仏の種類がバライティーに富んでいる。
  9. 石動山修験者による珍しい石仏の造立。
  10. 名号塔が多い。

などである。
富山県は東西文化の接点で、全県的に眺めると興味深いそのあり様が理解できるが、石仏の造立は庶民の心情の発露であり、私は石仏を調査研究することによってその心に触れて行きたいと念じている。(北陸石仏の会事務局長)

(参考)砺波地方の石仏

  1. 富山県の石仏
    • 東西文化の接点
      地質学・フォッサマグナ・方言・衣生活・雑煮の餅の形・民家・年中行事
    • 東部 庚申や二尊の合掌地蔵が多い。また特徴的な石龕がある。
    • 神通川流域に道祖神が多く、民間信仰に根ざした石仏がある。
    • 富山市周辺には、川石で作られた中世の如来系仏が多く展開している。
    • 常願寺川中流域にはきれいな石仏が多い。この地方には苗字帯刀を許された牧喜右衛門などを輩出。
    • 氷見地方には石動山などの山岳信仰の影響を受け、中世石造物が多い。また近世には地蔵・不動明王の造立がある。
    • 西部には、地蔵が圧倒的に多く。不動明王、観音、聖徳太子二歳像、三十三箇所観音などがある。
  2. 砺波地方の石仏の特徴
    • 地蔵の造立が多い。
    • 幕末・明治期にかけて爆発的に造立されている。
    • 石材は主に庄川町金屋から採掘される青色凝灰岩いわゆる金屋石を使用している。
    • 石仏の管理者が周知されている。
    • 地蔵祭が継続され、収穫祭のような雰囲気がある。福岡町の「つくりもん祭り」
    • 路傍の石仏でありながら、ほとんどが御堂に入っている。
    • 井波町瑞泉寺太子堂に安置される聖徳太子二歳像の模刻石仏が展開している。
    • 弥陀一仏の真宗王国の地でありながら石仏の種類が多い。
    • 石動山定着修験による珍しい石仏の造立。不動明王・飯綱権現・恵比寿・水天・青色金剛など
    • 名号搭が多い。
    • 大岩日石寺磨崖仏の模刻石仏が多い。
  3. 聖徳太子の石仏
    • その像容と特徴
      • 合掌する二歳像
      • 丸彫りで高さ約30センチから40センチ
    • 造立の時期とその分布
      • 明治20年代から昭和初期
      • 井波瑞泉寺から半径20キロ
      • 瑞泉寺から北西の散村の展開するところに多い
    • 造立した人々
      • 明治期は地域のシンボル的 戦没者・若連中の記念神社・公民館
      • 大正期は、個人的な造立が多くなる
      • 昭和前期は、ほとんど個人的な造立
    • 石材と石工
      • 金屋石と森川栄次郎
    • 祭りとお堂
      • 真宗大谷派僧侶。飛び抜けて豪華なお堂。

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日本石仏協会北陸支部