尾田武雄
砺波市庄川町の明治の名工森川栄次郎については、かなりの研究は進んでいる。森川についてはその墓碑により、一生の間一千体の石仏を制作されたことが知られている。しかしこの森川を先行して、井波石工に関しては系統だった調査はされていなかった。これは私自身の怠慢でもあるが、現在の調査の中間報告として、発表したい。
まず井波石工と金屋石工の系譜について年表にしたので参考にしていただきたい。
井波町と金屋の石工たちの系譜を年表にしてみた。
和歴 西暦 事項
享保18年 1733 石山希望者に150匁の役銀とひきかえで採掘させた。以後採掘
権は、特定の人に与えられ売買の対象になった。(「町中末々
困窮に付助成願書」P30。『井波町史下巻』P113)
延享元年 1744 三合新の千光寺石塔に「石工井波善太郎」が作る。
5年 1748 「石仏出来開眼井波石屋作」(『医王は語る』P387・福
光町法船寺文書
天明7年 1787 新たに石山を開き、北川村の石屋善太郎に一年銀二十匁で採掘
権を与えた。(「石切山請場所詮議願書」『井波町史』P496)
享和3年 1803 石工伊右衛門と清左衛門石切り場境争論一件(井波肝煎文書)
文化3年 1806 「石工四人御座候」(井波肝煎文書)
7年 1810 石山の採掘者は、甚右衛門、かじ屋又兵衛、義右衛門、清次郎、 平蔵、がある(井波肝煎文書)
文化14年 1817 金屋村庄兵衛が越前の国の石工について仏神彫刻の修業をする
(「青島村地蔵縁記」)
文政2年 1819 甚右衛門が小矢部市経田に石仏「阿弥陀如来」を作る。
7年 1824 金屋岩黒村庄兵衛兄弟不法の石切り一件(井波肝煎文書)
天保2年 1831 砺波市太田金比羅社の灯篭に「京坂庄兵衛」とある。
8年 1837 井波町甚兵衛は所有した石切り場の半分を銭二三貫で石屋和兵
衛に売り、石山役銀三匁一分あまりを上納するよう伝えた。(
13年 1842 井波肝煎文書)善太郎家は、代々採石にあたったが、他の人々
が勝手に石を切り出していた。そこで、善太郎は、石山銀を納
入しているのに詮ないと嘆き、上納金の返却を請求した。(「
井波肝煎文書)
14年 1843 この年以来金沢城修築工事に金屋石を使う。『庄川町史』P19
9(高岡木町文書)海上輸送には、銭屋五兵衛が当たる。文久
二年(1862)のまでの二十年続く
15年 1844 石屋平四郎が所有した石切り場を銭六貫文で石屋次郎右エ門に売り、石山役銀○このころに金屋石の採掘が始まる。
金屋村庄兵衛が山田村鍋谷村の牛嶽社のご神体を作る 弘化元年 1844 四匁一分あまりを上納するよう伝えた。(「井波肝煎文書)
2年 1845 石山の採掘者は、北川村には茂兵衛、長左衛門、甚右衛門、甚
左衛門、次兵衛松島村に清右衛門、伊右衛門、がいた。(『井
波町史下巻』P528)金屋岩黒村には、伊右衛門、六兵衛、與三
郎、伝右衛門、兵三郎、庄兵衛、久次郎、栄次郎の六軒の石屋
がある。(『庄川町史』下巻P199「村々諸商売書出帳」弘化二年)
嘉永元年 1848 黒部市の布施山開きの内、竜の口の石樋が、金屋岩黒村よりい
く。「黒部市石田川端家文書」
5年 1852 庄金剛寺村伝右衛門らから、勝手に石材を採掘されては困る
との訴えを出す。しかし御用石の搬出は従来通りになる。『庄
川町史』P203
安政2年 1855 「井波請地石切り場譲渡一件」(井波肝煎文書)北川村石屋弥
三郎から宗太郎へ、
同2年 金屋庄兵衛が、太田の十一面観音を作る。(中筋往来)
同3年 1856 福野町八塚の地蔵に「石工儀平」の銘がある。
文久2年 1862 富山藩八尾の奥野積山の三ケ用水拡張工事を、青島村の伝四郎ら
が請負う。(『庄川町史』P207)
3年 1863 福野町南町準提寺に「作井波石工七治郎」の石龕ある。
慶応2年 1866井波町今里神明宮に「井波石工七次郎」の不動明王の石仏がある。
井波金屋石工の系譜年表を通観すると、井波石工の流れが理解できる。さて、井波石工における石仏の造立も、実に顕著なのである。現在分かり得る、石工名のある石仏の一覧は次とおりである。