兵隊地蔵  尾田武雄

兵隊地蔵について

 私は富山県西部の砺波地方を中心に石仏調査に関り、早四十年近くになる。この地方は砺波市、南砺市、小矢部市である。昭和五十年ごろから石仏悉皆調査が行われ、約五千体の石仏が戸籍調査のように婦人や高齢者によるボランティア活動で整理された。地元の佐伯氏や石造美術研究家京田良志氏の指導の下にその調査にも多々関わった。県内中心に石仏数は一万五千体にはのぼると思われる。それらを総て拝見することは叶わないが、努めて実見し調査してきた。その中で、石仏の範疇に入るか分からないが兵隊の像をした石像が気になっていた。滑川市の栗三直隆氏の同市笠木の兵隊地蔵の情報を頂き、また北陸石仏の会会長平井一雄氏等々の御教示を得た。兵隊地蔵と関りある戦没碑も兵隊地蔵と似た建立意図があると思われる。庶民の石仏造像意図からの兵隊地蔵について深く関心を抱いていた。しかし先の戦争はあまりにも悲惨で、それ以上に深く知ろうとはしなかったことは事実であり自責している。

 私は戦後生まれの団塊世代である。いわゆる「戦争を知らない子供たち」である。地元で生れ、地元で育ち、地元の民俗学者故佐伯安一氏らと郷土史『太田村史』編纂に昭和五十年ごろから関り平成三年に発刊した。地域史ながら古代から現在までの詳細に記されている。第四章近代・現代で「明治の戰役と太田」、大正・昭和前期で「戦争苛烈のときの太田」がある。前記では「徴兵令と戰役」、「従軍兵士の手紙」があり、後記では「学童疎開」があり、史資料編には「戦没者と従軍者」の氏名を載せた。私が戦争と村について意識したのはこれがきっかけである。日清戦争従軍者が十三名、日露戦争従軍者五十名、第一次世界大戦従軍者一名、満州事変従軍者二十名、太平洋戦争従軍者二百二十九名である。多くの方々が出兵されている。戦没者も多く、その慰霊の為の石碑が道端などに建っている。それらに関心をもってきた。

 平成十五年に『国立歴史民俗博物館研究報告 第一〇一集』で「村と戦場」、平成二十年に『国立歴史民俗博物館研究報告 第一四七集』で「戦争体験の記録と語りに関する資料的研究」が発刊され、それを受けて新谷尚紀氏が『お葬式 死と慰霊の日本史』(平成二十一年刊)平成十四年に本康宏史著『軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち』、岩田重則著『戦死者霊魂のゆくえー戦争と民俗』(平成十五年刊)が上梓され、戦争を客観的に史的に調査報告に刺激を受けた。戦没碑や忠魂碑を民俗学的に調査研究がされて、地元でもそのような仕事の重要性を感じた。

県内の分布

 兵隊の像を石に彫り込んだいわゆる兵隊地蔵は、管見であるが現在富山県内で十体確認している。戦争で亡くなった方々を顕彰した戦没碑的なものである。富山県西部が三体,東部が七体であり、お堂には入らず総てが露座である。彫法は浮彫が五体、丸彫りが五体の半々である。像の等身大のものが九体、一体は三十センチ弱で小さい。造像年は日露戦争関連では七体、第二次世界大戦は三体である。日露戦争関連が多い、これは野にある戦没碑も同様である。一般の石仏のように重要な道路の交差点や辻に建つのが八体、寺院の境内に建つのが二体である。寺院境内のものは墓石の雰囲気が強く感じられる。

 北陸石仏の会は北陸地方を中心に石仏の調査研究を行っているが、特に滝本やすし副会長はこの地方をくまなく足で調査されている。氏の教示によると石川県に二体福井県に四体の確認をされている。また全国的にも珍しく松井兵英会員によると愛知県知多郡南知多町にコンクリートの兵隊像があると教示を得た。また前掲著『軍都の慰霊空間―国民統合と戦死者たち』でも、知多町の軍人像が紹介され、他に航空犠牲者の像が埼玉県所沢市に、埼玉県川口市の日露戦争の旅順閉塞作戦に参加し、広瀬中佐ら決死隊の一員として、任務遂行中に倒れた小池幸三郎の胸像があるとされる。金沢市の野田山山麓の大乗寺境内には陸軍大演習時に自害した木村三郎大尉の銅像があることが報告されている。富山県内にこれだけあるのは珍しいのではないだろうか。

日露戦争

富山県内には日露戦争に関わる兵隊地蔵は八体ある。十一体中は地帯で、全体の約八割に当たる。道端に建つ戦没碑もまた同等の割、日露戦争に関わるものであろう。

 日露戦争は明治三十七年(一九〇四)二月から明治三十八年九月に日本とロシアとの間に行われた戦争である。満州と朝鮮半島の権益に対するものであった。日本海の制海権を握るには、ロシアのバルチック艦隊の襲を阻止、その前に旅順を攻略する必要があった。

 二月九日のロシアの宣戦布告したその二日後、新湊市の奈呉浦丸が青森沖でロシア軍に砲撃され沈没させられ、県民には大きな衝撃を与えた。第九師団(金沢)は司令官乃木希典中将の第三軍に属した。富山県の兵士は歩兵第三十五連隊で、旅順要塞の攻囲軍に加わるよう命令を受け、ロシア軍の前衛陣地の激戦地へ出陣した。「旅順港を囲む堡塁は堅固無双、難攻不落であった。旅順は四周をやまで囲まれ、南方の一部に狭い港口が開いているだけである。これらの四周の山々はすべて堅固な要塞の連続であった。その要塞築造には二十万樽のセメントを使用し、べトンで固め、その上強圧電流を通じた鉄条網をめぐらしてあった。更に日本軍が持たない機関銃を多数揃え、肉薄攻撃をしてくる日本軍を、高所より撃ち倒したのであった。これに対し日本軍は準備不測のままで、この堅固無双の要塞に立ち向かうことになった。旅順の地図といえば日清戦争の時のもので、その後の防備強化のことは皆目わかっていなかったのである。第三軍は八月十九日から二十一日まで、攻城砲・野砲の全力をあげて砲撃し、その効果を信じて二十一日、第一回総攻撃を実施した。しかし死闘四日間にわたり、一万五千人の死傷者を出したにもかかわらず、目的は達せられず、乃木司令官はついに総攻撃の中止を命令した。ただ第九師団が攻撃した盤竜山東堡塁と西堡塁のみは、莫大な損害を蒙りながら占領を確保した。第三軍の中で、この第九師団の占領は全軍唯一地の武勲だった」(『富山県史通史編Ⅴ 近代上』八六二頁)

 また第九師団における戦死者のうち、富山県人編成の歩兵第三十五連隊の犠牲者が最も多かった。本県の郡市別人数は次のようである。(「富山日報」明治三十九年四月七日  『富山県史通史編Ⅴ 近代上』八六七頁所収)上新川郡二二九名 中新川郡二九五名 下新川郡三七〇名 婦負郡二二六名 氷見郡一七九名 東砺波郡二八八名 西砺波郡三二二名 富山市一七二名 高岡市六九名とある。これらの兵士は若い農村出身の大事な人材であった。

 歴史書では冷静に史実に忠実に書かれているが、厚さ一,五メートルのべトンで固め、その上強圧電流を通じた鉄条網をめぐらしてあった。更に日本軍が持たない機関銃を多数揃え、肉薄攻撃をしてくる日本軍を、高所より撃ち倒したのであった。肉弾戦とはベトンで固められたそこに生身の体の生卵をぶつけるように、また強圧電流の鉄条網に生身で突破し、無防備に前進する身体に機関銃が撃ち込まれた。本願寺門徒地帯出身の兵士は「戦争するものも仏に対する報恩行」と、念仏を唱して肉弾戦を展開、「念仏連隊」の異名で呼ばれたといわれる。攻撃軍兵士の屍が山腹を埋めたのであった。

 南砺市上野の路傍の辻にある兵隊地蔵の碑文には「奉天省附近会戦為勇奮戦闘遂名誉戦死」とあり、「清國奉天省官依明治三十七、八年役功勲八等白色桐葉章特賜軍事債券五百円」、五百円の軍事債権を頂き、それで建立された。

上海事変と太平洋戦争

 上海事変は、昭和七年(一九三二)一月二十八日から三月三日にかけて戦われた中華民国の上海共同祖界周辺で起きた日中両軍の衝突である。砺波市庄川町金屋にある兵隊地蔵は、この上海事変で戦死した山田文作氏のコンクリート製の像である。昭和初期の鏝絵職人の射水市小杉町出身の竹内源造作である。源造は近くの光照寺に建造中であったコンクリート製の金屋大仏を制作中であった。山田文作氏の母が竹内源造に依頼されたものである。この像は名工源造の傑作で、軍服のしわや銃のベルト、背嚢、脚絆など細部にいたるまで丁重に仕上げている。顔は似るまで何度も作り直したとされている。当時の最高級のコンサートを使用し、経費は家三軒分ほどがかかったとされている。また山田家には文作氏の油彩画の肖像画も残されている。台座には碑文が残されている「昭和七年上海事變勃發也君慨然應微属第三十五聯隊第六中隊尋渡航二月廿五日上海附近近江彎鎮之役勇躍前進大有所鼓舞軍氣而不幸全身爆傷戰死」とある。

 太平洋戦争は、昭和十六年(一九四一)十二月から昭和二十年( 一九四五)八月までの間,アメリカ合衆国,イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争をさし,広義に第二次世界大戦といわれる。太平洋戦争という呼称はアメリカにとって太平洋での戦いであったために名づけられたもので,戦時中の日本では大東亜戦争と呼ばれていた。

昭和十九年十月にレイテ湾海戦で、日本軍は空母を四隻はじめ戦艦,巡洋艦などを失い,航行可能な戦艦と空軍力をすべて失い敗戦へと近づいていた。そんな中で、十月十二日にレイテ島で戦死されたのが立山町野町順正寺にある軍刀を持つ軍人像である。戦死した軍人は大東亜戦争として戦ったのである。この像が建立されたのが、長男と奥さんが三十二年後の昭和五十一年である。台座には「七生報国」とある。七度生まれ変わって国に忠誠を尽くすことを意味している。仏教でいう輪廻転生を感じることができるが、それは戦後生まれの感じ方なのであろう。

 ところで、砺波市小杉の路傍に「忠君愛國之碑」がある、向かって左には「陸軍中将従二位勲一等子爵高嶋鞆之助書」とある戦没碑が真新しく建っている。碑文によると地元林村小杉出身の九師団の軍人大江佐平が明治三十三年十二月に戦病死され、村人が相図り明治三十五年三月に建碑されたものである。その後、凝灰岩で地元の石材金屋石で作られたため風化が激しく平成九年に再建された。その際に同じ家から大江正男は、出兵され昭和十九年に国立富山商船学校を卒業後、軍用船に乗船し、航行中に敵魚雷に触れ沈没し亡くなられた。子孫にその死が忘却されないようにと刻まれている。太平洋戦争、いわゆる大東亜戦争は原子爆弾に象徴されるように、戦争の犠牲者があまりにも大きく、経済力も疲弊していた。兵隊地蔵や忠魂碑を建てることはなかなかできなかった。立山町野町順正寺にある軍刀を持つ軍人像は戦死後三十二年が経ち、「忠君愛國乃碑」の再建での大江正男の碑も、五十三年後になる。肉親への深い熱い想いと愛情を持ち続けた結果なのであろう。子孫を残せずに戦死した若者を、家の祖霊として祀るという行為の表れでもある。

村と戦争

 戦死された方々は村社会の重要な人材であり、家では大黒柱になるはずの人でもある。村の人びとや家族はどのように思ったのであろうか、これは戦争フォークロアでの視点が求められるような気がする。南砺市上野の交差点に「兵隊地蔵」といわれる石像がある。高さ一六五センチの、金屋石の割石に正面に大きく軍人の立像が浮き彫りされている。軍人の像そのものはやや剥落し、朽ちるのを防ぐために針金で補強されている。碑文は正面右に「陸軍歩兵一等卒森田太八君碑」とあり、正面左には「明治卅九丙午三月建之」左側面に「森川栄吉作」、背面には「故陸軍歩兵一等卒森田太八君死清國奉天省官依明治三十七、八年役功勲八等白色桐葉章特賜軍事債券五百円遺族今茲丙午父勒石其不朽属文於予焉君同郷情誼不可辞君越中東砺波郡元上野邨人家□□□□□父太丞母前川氏兄弟五人君其長子年十二年□明治三十七年十一月應第九師団□□召□入營歩兵第三十五連隊同年十二月□征露□命出帆宇品港上陸清國柳樹屯翌年□□□□奉天省附近会戦為勇奮戦闘遂名誉戦死□□□□招魂詞一日也」の語句が読み取れる。碑文によると、故陸軍歩兵一等卒森田太八君は、清國奉天省にて、明治三十七、八年役にて功勲八等白色桐葉章を特べつに賜り、軍事債券五百円を頂く、第三十五連隊は、三十七年十二月宇品港上陸し、清國柳樹屯翌年、奉天省附近にて、会戦の為に勇奮戦闘遂名誉戦死したとある。この像は軍事債権によって建てられたものであろう。名誉の戦士であるが、村や家族にとっては嘆きが読み取れる。

柳田国男の『先祖の話』において「少なくとも国の為に戦って死んだ若人だけは、何としても之を仏徒の謂ふ無縁ぼとけの例に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。もちろん国と府県とには晴の祭場があり、霊の鎮まる処は設けてあるが、一方には村々の骨肉相依るのは情を無視することは出来ない」とあり、肉親への情を吐露している。また村の大事な若い構成員の死は、村にとっても悲痛である。死は個人の喪失だけではなく、公の死としても受け入れられている。

おわりに

 国もために戦い戦死した若人のために、国や各自治体は英霊の祭祀が行われているが、村々や家族は、野に石仏を建てるように感情を示している。真宗王国の富山県南砺市の旧福光町の石碑を平成十五年に調査をしたことがある。(『福光町の石碑』として公刊されている)それによると、石碑の総数が四百四十二基、その内戦没碑が百四十二基であり、園内日露戦争関係が五十五基で最も多く、大東亜戦争が三十四基であり、続いて日清戦争は十一基である。それらの多くは戦死者個人への慰霊や供養のために建てられものである。石碑の中央には「南無阿弥陀佛」とあり左右に個人名、建立者名がある。建立者は地元の若連中や、家族の場合が多い。戦死者の慰霊や供養は、国や自治体では神道的なものが多いが、真宗地帯の村々に入ると真宗的な弔い形が多い。ともかく、戦死は悲しいことには変わりはない。農村を犠牲にして戦われた戦争の悲劇の遺産である。この兵隊地蔵には「栄光」と「悲劇」が同時に内蔵されており、その根底には「反戦」の深い意思表示もうかがわれる。野にある兵隊地蔵や戦没碑を調査することは、これからの戦争の民俗にとり重要なことである。また日露戦争から百年以上も経てきている、これらの風化が進み、崩れかけているものもあり、調査の急務の必要性を感じるものである。

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