疫病と石仏  尾田武雄

はじめに

 砺波臣志留志は天平十九年(七四七)九月に米三千石を東大寺の大仏造営のために、施入に献じ無位より外従五位下になった。その後も東大寺に墾田百町を東大寺に献じたことにより外従五位上に叙され、宝亀元年(七七〇)には伊賀守に任じられ、とんとん拍子に出世した砺波の偉人の一人である。天平七年(七三五)から九年にかけて天然痘が大流行し、日本の総人口の二十五%から三十五%の百万人から百五十万人が、感染症により死亡したとされている。当時の日本の政治、経済、宗教に大きな影響を及ぼし、そのきっかけとして聖武天皇は東大寺のいわゆる奈良の大仏の建造を命じられたのである。それに呼応したのが砺波の在地領主の利波臣志留志であったのである。現代の新型コロナ禍に日本の古代の疫病と砺波とのかかわりに縁を感じている次第である。

 ところで、砺波地方に石仏が約五千体調査報告されているが、石仏は死者供養のために造像される場合が多い。また供養される死者の多くの死は、川での溺死、交通事故、父母より早くなくなった子供など突然死のような、異常な状態でなくなった場合での造像の意図が多く見受けられる。また石仏の像立は江戸時代末から明治期に多く、八十%に上るであろう。当然幕末から明治期に大流行した疫病に亡くなった人々への供養の石仏も見受けられる。またそれらの石仏を知ることも重要であると思われる。

江戸時代末のコレラ

 江戸時代末に蔓延したコレラは「ころり」と称され、底知れぬ恐怖をもって恐れられた。砺波地方でもその大きい津波が襲ってきていた。この安政五年(一八五八)の旧暦六月に長崎で発したコレラは九州各地で蔓延し大阪、京都を経て七月以降は江戸で流行が始まって十月に及び、江戸での死者は三万人にも達したとされている。加賀の前田領三国にも波及して来た。

 砺 波 市 三 島 町 の 曹 洞 宗 瑞 祥 寺 の 山 門 前 に は 「 こ ろ り 不 動 明 王 」 が お 堂 に 安置 さ れ て い る 。 そ こ に は 小 さ な 浮 彫 の 不 動 明 王 立 像 が 安 置 さ れ て お り 、 木 の札 も 入 っ て い る 。  安 政 六 年 (一八五九)に コ レ ラ が この地方に流 行 し て い た 頃 、 南 砺 市 桐 木 の 大 岩谷 と 言 う と こ ろ か ら 石 造 の 不 動 尊 が 掘 り 出 さ れ た 。 こ れ を 拝 む と コ レ ラ が 罹ら な い と い わ れ 、 一 日 数 百 人 も の 人 々 が 参 詣 し た 。 杉 木 新 町 ( 砺 波 市 出 町 )に あ っ た 郡 奉 行 所 が 「 人 民 を 惑 わ す 」 と の こ と で 、 郡 役 所 預 か り に な っ た 。そ の 後 明 治 二 年(一八六九) に 瑞 祥 寺 に 移転安置 さ れ る こ と に な っ た

砺波市三島町瑞祥寺のころり不動

またこれより先の天保八年(一八三七)のコレラ病により五箇山の田向村では百二十余名が亡くなり、流刑人の篠田余太夫は、この死者の弔いを発願して、石碑の建立を村民に呼びかけ建立した。碑文には、正面に「南無阿弥陀仏」、左側面に「天保八年疫病にて死者百二十有人あり、此の菩提を弔うため石碑を造立するものである」旨が記され、右側面に「嘉永元年四月、施主 篠田余太夫、せわ人作助」とある。この石碑は南砺市の「コレラ病死者の石碑」として市指定文化財になっている。


明治期のコレラ

明治期におけるコレラは明治十二年、十九年、二十八に年の三回にわたり流行した。十二年には富山県だけでも死者一万数千人に及び、十九年にも一万七百人もでた。南砺市井波の閑乗寺登り口にはコレラ堂があり、そこには珍しい石仏の五大力菩薩の内の無量力吼菩薩が鎮座している。この石仏の右側面には「明治十九年戌十月」とある。井波ではこの年にコレラでの死亡者四十九名であった。無量力吼の像容は眼が三つあり、右手に五千剣輪、左手に転法輪を持ち恐ろしい憤怒の形相である。またこの地は平野部と山間部の境界にあたり、いわゆる道祖神的な賽の神をイメージする。境を護り、悪疫悪霊の入り込むことを遮る神として建立されたのではないかと思われる。この菩薩はもう一体、井波町の安政義人慰霊碑脇にもある。

井波町 無量力吼

砺波市中野の立山酒造前の駐車場脇に、たくさんの石仏の入ったお堂がある。その中でひときわ大きい薬師如来坐像が鎮座されている。高さ一四七センチ、幅一〇四センチで「明治二十年六月」「南部元次」「惣連中」とある。この地区では明治十九年にはコレラでの死亡者七十三人に達していた。南部元次は当地に医師であり、惣連中は村人全員の意である。コレラ退散を祈念し造像された。

砺波市中野観音堂

おわりに

中国河北省武漢市で原因不明のウイルス性肺炎として令和元年十一月に初めて報告され、その後中国全土に広がり、二年には世界規模に広がった。世界各国ではロックダウンやオリンピック延期など、新型コロナウイルスは世界の体制や経済に大きい打撃を受けた。利波臣志留志の時代から、営々と感染症と戦い続けた砺波の人々は、その脅威から逃れることなく粛々と生きてきた。それは神仏に対する敬意と感謝の心が根付いているあかしでもある。

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