北陸の中世地蔵半跏像  尾田武雄

越中・能登・加賀における中世における地蔵半跏像を求め歩いたが、氷見地方を中心とした富山県西部、能登半島それに白山麓にそれが多く展開していることがわかった。しかしそれらのほとんどが、顔面が削り取られ、錫杖、宝珠が取られているのである。これらは志雄町で聞いた「頭が、削られているのは、魂を抜かれているためだ」と説明されたことが気にかかるのである。

これは、シルクロ-ドのバ-ミャン渓谷の大磨崖仏が異教徒によって破壊されているイメ-ジと似ていると思われるのである。

中世の越中・能登・加賀三州に展開する地蔵半跏像

はじめに

富山県における中世石造物研究は、京田良志先生の業績によるものが多い。また石川県は故櫻井甚一先生の研究の負うところが多い。越中の立山は慈興、加賀の白山は泰澄の開山で修験の山として知られている。立山はその太刀のような鋭い山容から古くは「たちやま」と呼ばれていた。その麓の上市町大岩日石寺には巨石に刻まれた不動明王がある。これは平安時代の山岳仏教の遺物であり、国の重要文化財にも指定されている。鎌倉・南北朝・室町時代にはいると、中世石造物といわれる五輪塔、宝篋印塔、板碑などが立山山麓周辺や白山山麓に多く造立されるようになる。

また能登半島には白山信仰などから派生した石動山修験の手による中世石造物が多く見られる。富山平野には、丸い川石で作った一石一尊仏の如来形物の石仏が多く見ることができる。砺波平野や氷見地方は砂岩質の如来形物が多く見ることができる。これらはともに、南北朝期から室町時代の造立である。

そんな中世石造物に混じって、また単独に神社の片隅などに、じっと佇んでいる地蔵半跏像がある。このことについて十数年来にわたり研究してきたことを報告したいと思う。地蔵信仰と白山・立山路傍の石仏の多くは地蔵菩薩である。童謡や民話に出てくる「笠地蔵」のような地蔵のように庶民には、親しみを覚える菩薩である。富山県・石川県の農村の辻々に多くの石仏が造立されている。この地方は真宗王国といわれるくらいに、真宗門徒が多い。

この地方の多くは、近世末から明治期にかけて多くの石仏が造立されたが、中世期にも中性石造物と称される五輪塔、宝篋印塔、層塔、板碑などに混じって如来形仏や地蔵の石仏が散見することがある。そして如来形仏は土饅頭の上に差し込む状態で露座であり、地蔵は緻密で白い砂岩質の石材の半跏像で、神社内の室内仏である場合が多い。これらはともに明らかに近世の石仏ではなく、威風堂々とし、写実的で鎌倉時代の作から室町時代の作と思われるものが多いのである。さて地蔵菩薩は、仏滅後弥勒菩薩が次の仏としてこの世に表われるまで、五濁悪世の無仏世界の衆生の救済を、仏からゆだねられたところにあるとされている。

平安時代中葉以降の末法思想と浄土教信仰の勃興によって民間にも地蔵信仰が広まったとされ、また鎌倉時代には禅宗諸派が地蔵十王信仰を重ねて強調し、加えて浄土教の普及による末世地獄必定の思潮が蔓延し、多くの地蔵が造立された。『地蔵菩薩霊験記』『今昔物語』の地蔵説話なども喧伝されて庶民への信仰をかき立てたとされている。地蔵信仰を布教した人々は、天台浄土教家や真言宗とそこから派生した修験の徒とされている。そこで伯耆大山の地蔵信仰は顕著である。中世における民間への地蔵信仰の流布には、修験の人々によるものが多いとされている。ところで北陸は、東北地方とともに修験道が盛んであった。特に加賀の白山と越中の立山という修験の山があるのである。『今昔物語集』には、立山関係の説話が五話あるが、立山地獄に落ちた人が仏の力によって救済されたとするのが三話、立山に参詣して修練したとするのが二話である。第十七巻第十八話「備中国僧阿清、地蔵ノ助ケ依テ活クルヲ得タル語」の中で、僧阿清が地獄へ行って戻って来た話であるが、地獄で地蔵菩薩が表われて、僧阿清が「生キタル間、白山・立山ト云フ霊験ニ詣デテ」いたので生き返ったとある。また第十七巻第二十七話「越中立山ノ地獄ニ堕チシ女、地獄ノ助ヲ蒙レル語」などがある。

これらの物語から立山の地獄のこと、そして地蔵の心受苦が描かれ、当時の地蔵信仰を窺い知ることが出来るのである。そしてその遺物として、立山の登り口である芦峅寺には、六地蔵の磨崖仏があり、また頂上への参道脇や、室堂の付近にも中世に造立された地蔵が散見することができる。しかし能登半島や加賀地方は、立山よりも白山信仰の影響を受けていた。富山県西部の砺波平野では、この立山と白山は同時に拝することができるが、中世にあってはどちらかといえば、立山より白山の影響を強く受けていたと思われる。

白山信仰と地蔵

白山は『万葉集』などの歌集に「越の白山(しらやま)」として歌われている。早くから修行禅定が行なわれていた。白山の開山としては、天徳二年(九五八)に浄蔵の門人神興が筆記したとされる『泰澄和尚伝』によれば、越の大徳とよばれた泰澄とされている。虎関師錬著で元亨二年(一三二一)に成立した『元亨釈書』によれば「蔵縁」なる僧のことが記されてある。「釈蔵縁。神融法師之徒也。形短小又甚醜。徐歩却疾。人走不及。専唱地蔵號。無別業。游化北土。不移佗方。毀譽不遷。好行施利。人間年齢。對曰八十。然其□如四十許。感通如響。縛鬼降神。白山立山為修練場。晩縛菴白山笥笠而居。終夜高唱地蔵號。院中衆僧聞之謂。縁勤持念。詰朝至菴見之。向西端坐。合掌化。」これによると釈蔵縁は、走ることが早く専ら地蔵号を唱えていた。別の生業は無く、白山・立山を修練の場としていた。晩年は白山に庵を作っていた。臨終のとき高らかに地蔵号を唱えたという。

白山の縁起については南北朝に成立したとされる『神道集』(巻六・東洋文庫本)には太郎剣御前の本地不動明王、次郎王子の本地虚空蔵菩薩、三郎王子の本地地蔵菩薩、四郎毘沙門の本地文殊菩薩、五郎王子の本地弥勒菩薩とある。また『白山権現講式』によると六所王子の内、禅師王子は地蔵にあてられている。

また江戸時代の長吏の記した『白山諸雑事記』によれば、下白山は陀祇所(談議所)と地蔵院とに護摩堂があり、前者は天台、後者は真言であったという。白山信仰の拠点として知られる石川郡鶴来町白山町の地蔵堂には通称カタガリ地蔵と呼ばれる地蔵半跏像がある。これは鎌倉時代の風格を伝える堂々たるものである。これはかつて手取川の渓谷にそそり立っていた舟岡山の岸壁に彫り込まれていた磨崖仏である。それが明治三十一年から同三十六年にかけて実施された、手取川七ケ用水の取入口合併高じに伴う工事によって切り取られ、現在地に安置されたものである。このように白山と地蔵とは深いつながりを持つのである。

地蔵半跏像の石仏と白山

砺波地方

大正十三年発行の佐伯有義編『富山県神社祭神御事歴』によると、菊理媛命を祭神とする白山社は百三十二社に及ぶという。そのうち富山県西部つまり呉西地区には七十六社あ  り、多く広がっている。砺波平野の南西に聳える医王山は白山と同じ泰澄の開山伝承を残している。またこの地方において白山信仰と真宗の広がりのも一致するものがある。この地方には重層的に白山信仰が寝深く浸透しているのである。砺波市の石仏調査を足掛かりに地元の石仏悉皆調査をした。その時、近くの祖泉神社前の小堂に入っている古様で明らかに近世仏では無い地蔵半跏像に魅せられた。

それから砺波市史編纂事業に関わり、市内の神社百十社を調査した際に、このような地蔵を数体拝見した。

その後、福光町の修験の山医王山文化調査に参加したり、また福野町の元文化財審議員長斉藤善雄氏の配慮で、真言宗安居寺の秘仏地主地蔵を拝見したりして、砺波地方で中世の地蔵半跏像を十二体拝見することができた。その中で最もの白眉で、福野町の真言宗安居寺の秘仏である地主地蔵である。医王山麓から少し南の丘陵地にこの寺がある。山号は弥勒山で伝承によるとインドから渡来した僧善無畏三蔵を開基とし、養老二年(七一八)釈迦が造ったとされる聖観音を携えて、この地に至り、一夏九安居したといわれている。またそれが寺号の由来とされている。藩政期には加賀藩の祈願所として栄え、本尊の聖観音立像は、寺の秘仏で国の重要文化財に指定されている。また前立聖観音立像は、鎌倉時代の作で県の指定文化財としてあり、古くから寺院が営まれてきたのである。

ところで、この寺には「地主地蔵」という石造の右手に錫杖、左手に宝珠の足を踏み下げた半跏像の延命地蔵がある。高さ三十一・五センチ、幅は岩座の最大幅で二十三・五センチであり、その彫法などから鎌倉中期より末期にかけての作とされている。江戸時代中期に書かれた縁起によると「垂迹は白蛇のすがた」とあり白山信仰を内蔵している。寺内には元白山社も祀られていた。

このような右手に錫杖、左手に宝珠の足を踏み下げた半跏像の延命地蔵の石仏が神社のご神体として、鎮座しているかもしくは鎮座していた場合がある。福光町岩木御坊山、同町竹内熊野神社、同町湯谷八幡社、同町利波河神明社、小矢部市道林寺大山祇社、砺波市東中神社、同下中条比売神社、平村上梨白山社などである。これらはほとんど高さが三十センチから四十センチで、蓮座ではなく岩座であり石質が乳白色のシルト岩質泥岩である。

氷見地方

乳白色のシルト岩質泥岩が採掘されるのが、富山県でも能登半島寄りの氷見の海岸淵であることは知られていた。また砺波地方に白山信仰が入ったのは、白山からダイレクトに入るものと、能登半島の基部に位置し修験の山と知られる石動山から経由して、入っている場合も多いのである。

富山県氷見市は北方に石動山を望み、東に富山湾があり、石動山信仰の影響を強く受けたところでもある。ここでは富山県文化財保護指導委員田中清一氏の協力で、中世の地蔵半跏像の調査をした。この地方では、乳白色のシルト岩質泥岩でできた右手に錫杖、左手に宝珠の足を踏み下げた半跏像の延命地蔵が、三十三体を調査することができた。ここは石材が産出地に近いためか優品が多い。上田諏訪神社では数本の巨樹に囲まれて社もなくこの地蔵だけが鎮座している。このようなパタ-ンが広く見られるのである。この調査でいろんなことが理解できた。

1.正徳二年(一七一二)に加賀藩が各村の十村にそれぞれの管下の堂宮を調べて郡役所に提出させた「正徳社号帳」に記された白山社に多いということ、

2.寺院の場合、曹洞宗などの禅宗に多いということ、

3.顔面が削り取られている場合が多いということ、

4.錫杖、宝珠が欠落している場合が多いこと、

5.顔面が削られていることや錫杖、宝珠が欠落は人為的であることなどである。

石動山は中世期以後、白山の影響化にあったとされているので、石動山を経由した白山信仰がこの氷見地方に定着したのであろうと推察できる。ところで、富山県内でこの石材を使った同様な像容の地蔵半跏像は、立山芦峅寺閻魔堂前に二体、立山室堂に一体、立山玉殿に二体である。また岐阜県神岡西茂住に一体のみの確認である。県内では県西部に広く展開しているといえる。

能登半島地方

能登半島における中世石造物の調査は故櫻井甚一氏の業績が大きい、氏のきめの細かい調査報告された各市町村史などをなぞるように、彫刻家藤井治紀氏とともに調査を行なった。ここには珠洲郡内浦町不動寺の地蔵半跏像はシルト岩質泥岩であるが、数体の他はやや違うようにおもわれた。ここでは十九体調査することができた。志雄町散田は能登半島の西側基部に位置している。この町の中央部に散田地区がある。

散田には、山岸、室野、金谷の三つの垣内があるがそのうち山岸にこの地蔵がある。この地蔵は、元旧家で十村役であった山岸一郎宅(通称弥与ドン)にあったもので、現在は松浦繁男宅にある。これはもと愛宕社のご神体といわれている。『石川県志雄町史』(昭和四十九年発行)によると「山岸愛宕社藩政期には『氏神、釈迦・地蔵』となっており、山伏金性院が支配していた。明治の神仏分離のとき、山岸弥一郎に預けられた。現在、山岸一郎が所蔵している」とある。その後山岸家が無住になり、近くの松浦家が管理保管することになったのである。松浦家では、愛宕社のご神体として丁重に扱われている。私が拝見したのは平成五年五月であった。桐の箱の中に安置してあったが、光背の半分は欠け、頭部も右半分が欠落していた。それが非常に印象的に思えた。この地蔵を管理されている松浦繁男さん(明治四十一年生)談によると「頭が、欠けているのは魂が抜かれているためだ」のことばに、強い印象をもった。

七尾市大田にある曹洞宗海門寺の山門前にもこの地蔵がある。これもまた石材はシルト岩質泥岩である。

加賀地方

加賀は戦国時代に百姓の持ちたる国として、一向一揆の勢力が強かった。そのため弥陀一仏の真宗の教えが深く根を張っていたところでもある。そんな土地柄であるが、加賀地方の白山麓は、白山信仰の拠点である鶴来町には、中世石造物が多く見ることができる。石川郡鶴来町は、手取川の中流でその扇頂部右岸にある。古代から霊場白山の登り口として知られ、加賀一宮白山比咩神社や金剣宮などがある。

鶴来町そのものは、この門前町として開けたものである。白山町にあるカタガリ地蔵は、一宮駅から百メ-トルほど南に行った道路脇の小堂に入っている。この石仏に関しての論稿は、多くあるが本格的に取り上げられたのが藤原(京田)良志氏の「加賀・鶴来町の磨崖仏」(『史迹と美術』第二八0号・昭和三二年稿)である。その後、京田良志編『日本の石仏5北陸編』(京田良志氏は「北陸の磨崖仏」、桜井甚一氏は「加賀の石仏」)で詳細に述べられている。また『鶴来町史歴史編』(平成元年発行)、林信一氏の「石仏の古里鶴来」(昭和四六年発行)なども、地元からの報告がある。これらを、総合するとかつてこの石仏は、手取川の渓谷にそそり立っていた、舟岡山の岸壁に彫り込まれていた磨崖仏であった。

それが、明治三一年から始まった手取川七ケ用水の取水口合併工事に伴う道路新設工事によって、切り取られ、現在地に安置されたものである。またそこは、「妙法の石室」があったところとされている。『加賀志徴』によると「此石室は、今神主町より鶴来へ出る往還脇なる、舟岡山の麓の塔の邊なる岩窟にて、岩に仏像を彫刻せり。此仏像かたがりたる故に、カタガリ地蔵と称し、塔の邊ならば九重塔の穴ともいへり。此仏像は地蔵のさまに似たれど、能見るに地蔵にあらず。彼泰澄が像にて、此石室に行ひ居たる比、自ら彫刻したるよしいひ伝へり。」とある。

また近世前期に白山宮の惣長吏澄意が表わした『白山諸雑事記』にも「妙法の石室」やかかがり地蔵のことが記されている。ところでこのかたがり地蔵は、像そのものは、岩面に半肉彫りされ、顔面は薄く削られ、宝珠の頭部や宝珠が欠落している。岩座に坐る姿は、堂々としている。

桜井甚一氏は、この造像は鎌倉時代と推定されている。像脇に五輪塔が追刻されているが、これは明らかに、後刻である。このかたがり地蔵に、小石を供えると足の病気が治り、箸を供えれば歯痛が治るとされている。加賀地方には、このほか金沢市伝燈寺町の臨済宗傳燈寺の「身代り地蔵」なども同じ像容の地蔵である。

おわりに

越中・能登・加賀における中世における地蔵半跏像を求め歩いたが、氷見地方を中心とした富山県西部、能登半島それに白山麓にそれが多く展開していることがわかった。しかしそれらのほとんどが、顔面が削り取られ、錫杖、宝珠が取られているのである。これらは志雄町で聞いた「頭が、削られているのは、魂を抜かれているためだ」と説明されたことが気にかかるのである。

これは、シルクロ-ドのバ-ミャン渓谷の大磨崖仏が異教徒によって破壊されているイメ-ジと似ていると思われるのである。

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