千体の石仏を刻んだ明治の石工森川栄次郎 尾田武雄

砺波市井栗谷の不動明王

尾田武雄

はじめに

平成十年十月三日から十一月八日まで、砺波郷土資料館で富山県生涯学習フェステバル

実行委員会と共催して第二十二回郷土先人展「千体の石仏を刻んだ明治の石工森川栄次郎

展」が開かれた。主催は砺波郷土資料館・砺波文化協会・砺波石仏の会の三団体である。

砺波地方を代表する石工として取り上げられたものである。ここで砺波石仏の会代表と

してこの展覧会で得た、知られざる新しい森川栄次郎の素顔を報告しておきたい。

森川栄次郎の生涯

・墓碑

森川栄次郎の生涯を知るには、庄川町岩黒の金屋共同墓地の森川家の墓碑である。この

墓は「紀元二千五百九十四年(昭和九年)四月建之三代目森川栄吉分家太七仝辰蔵

」とあり、墓碑には次のようにある。

森川翁墓碑

森川翁通称栄次郎、生於茶木村。幼頴悟挙上抜群。石匠

準慶使養継同姓栄次郎之後更與準慶之名。翁、平素執

刀、屹々不倦刻佛像。一生及所作一千餘躯。篤信禮佛、一

聞教義、終生不忘。而寡言力行、人以取範。明治丗六年、

春初、詠辞世和歌。豫如知死期。四月四日其所作太子尊像、

偶有流汗之事。家人異之。翁翌五日、念佛精進如眠、終

遂大往生。嗣子栄吉、建墓予記平生之一端。乃書以應

昭和甲戌歳孟秋龍國山主量性撰并書

六六之年を迎へて六十五

能利を聞く外何か思はん

(書き下し文)

森川翁通称栄次郎、茶木村に於て生れる。幼くして頴悟、挙止抜群。石

匠準慶、使い養いて同姓を継がしむ。栄次郎の後の、更に準慶の名を與う。

翁、平素刀を執れば、屹々として倦まず佛像を刻む。一生作る所一千餘躯に

及ぶ。

篤く禮佛を信じ、一たび教義を聞けば、終生忘れず。而して寡言力行、人以て

範を取る。明治丗六年春初め、辞世の和歌を詠む。豫め死期を知れる如し。

四月四日、其の作る所の太子尊像、偶々汗を流す事あり。家人之異とす。翁、

其翌五日、念佛精進して眠るが如く、終に大往生を遂げる。

嗣子栄吉、墓を建てるに、予に平生の一端を記すことを請う。乃ち書きて以て

之に應ず。

昭和甲戌孟秋龍國山主量性撰并書

(九年初秋)(西蓮寺)

六六の年を迎えて六十五

のりを聞く外何か思はん

この墓碑によって、森川栄次郎は砺波郡茶木村(現砺波市茶木)の生れで、森川家に養

子に入ったことがわかる。そして一生の間一千体の石仏を刻み、信仰心に篤く明治三十六

年四月五日に六十五歳で亡くなっている。和歌の「六六」とは、明治三十六年のことであ

り、六字の名号も意味しているのであろう。

森川栄次郎のお墓

・その生涯

天保十年(一八三九)に茶木村の谷内家に生れ、幼少期に金屋村(現庄川町金屋)の石

工栄次郎に弟子入りし、石工としての腕をかわれ森川家の養子となり、のちに二代目栄次

郎を襲名した。

その仕事ぶりは実直謹言、無駄なことはなにひとつしゃべらず、ひたすら彫ることに没

頭したといわれている。(茶木の隣村願成寺八世住職嶺秀さん談)

千体の石仏を彫ったとされる栄次郎であるが、石仏に銘の入ったものは下記の通りであ

まり多くはない。

明治十七年(一八八四)四十六歳十一面観音(庄川町金屋西野)

十八年(一八八五)四十七歳十一面観音(砺波市秋元観音堂)

十八年(一八八五)四十七歳不動明王(砺波市太田萬福寺)

二十二年(一八八九)五十一歳不動明王(砺波市東別所)

二十三年(一八九0)五十二歳十一面観音(砺波市石丸)

二十七年(一八九四)五十六歳不動明王(砺波市井栗谷)

二十八年(一八九五)五十七歳不動明王(井波町東城寺八幡社)

二十九年(一八九六)五十八歳不動明王(井波町沖神明社)

三十一年(一八九八)六十歳十一面観音(井波町今里)

三十二年(一八九九)六十一歳不動明王(庄川町岩黒瓜割清水)

十体に銘が彫られてある。これはすべて一メ-トル以上の大きい作品で、砺波市井栗谷の

不動明王は二百四十メ-トルにも達し、栄次郎にとっては自信作のものであっただろうと

思われる。

・石仏や石碑の価格

福光町大西の谷村宅文書の「明治三十一年萬事付込記帳」によると

(前略)

金屋岩黒村森川栄次郎

一、壱円八十五銭地蔵

一、壱銭五厘俵一ツ

〆壱円八十六銭五厘

九月九日庄太郎・与三郎弐人行

一、四拾銭九月三十日地蔵堂

(後略)

また『野尻村史料』(野尻村役場編・昭和四年発行)所収の「羊齋随筆其四」(菊地孝

吉蔵)の「西行上人安居村安居寺へ詣でて詠給へし歌、庫内に秘るか故、我是を愛て石碑

に銘し、明治十九年戌六月十五日、観音堂左の山に建つ。其歌左の如し。

山里は庭の梢の音まても世をすさめたる気色なる哉

石工は金屋岩黒村森川栄次郎、但日数十日計り工料弐円。」とある。

この時期の石仏や石碑の工料はこのように約二円ほどであったのであろうか。

・森川家の系譜

『井波町肝煎文書』(井波町立図書館蔵)の中に文政七年(一八二四)の「持山にて金

屋岩黒村庄兵衛等石切出詮議につき口書」文書がある。

能美組井波町石屋平蔵倅

平作口書

私父平蔵義御召出ニ御座候得共、当病ニ付罷出

得不申、依而私義御召出ニ付罷出申候ニ付

今度父平蔵より庄金剛寺村領山之内金屋岩黒

村庄右衛門持山石切場所石、父平蔵買置申候

所、先月廿八日同廿九日金屋岩黒村庄兵衛并同人

弟栄次郎、清右衛門右石賊切仕居申ニ付見咎、其段

御断申上候ニ付其委細可申上旨御糺ニ付申上候

文化十四年七月金屋岩黒村庄右衛門御納跡入指

支候間、同人持山之内石切場所故買請、呉候様

申聞候ニ付代銭弐貫五百文ニ取極買請、其後相稼

来申義ニ御座候、然所頃日父平蔵病気ニ付

私義右石切場所江罷越候所、金屋岩黒村庄兵衛

并同人弟両人相同シ罷越居石切出候ニ付、何故

石切出候哉与相咎候、彼是我儘而己申募

相弁不申ニ付、無處山主庄右衛門申談、右場所

様子見届金屋岩黒村役人中手前へ詮義方

願出候得共、庄兵衛等弥我意申募無余義御断

申上候段申上候所右石切場所之義金屋岩黒村

故庄右衛門持山ニ而同人弟庄兵衛江最前石切

稼之義申談為切申義有之段、庄右衛門より申上候

ニ付元来私共一類之間ニ候得ハ何与願様子承り

意可申有躰可申上旨御糺ニ御座候得共、何ニも

承り申義無御座旨申上候所、左候得ハ是迄

庄兵衛折々石切出候義有之段申上候、此義如何与

御糺ニ御座、候私共町方より右石切場所迄壱里

斗も相隔居申義ニ御座候得ハ、折々ハ右庄兵衛

等切取参り候義も有之候而も、其様子存不申、

尤庄兵衛母養育方ニ故庄右衛門より譲請居申義

不慥共其品申上候所能々思慮仕候得ハ、最前

別家いたし候砌家財等仕合之義ニ付申分

之義も有之躰、左候得ハ其節何与願約束

も有之哉与相察不申候得共、其義も今度

金屋岩黒村役人中手前ニ而理解申聞候得ハ、示談

可仕様も御座候得共、庄兵衛稼山躰ニ我意

申募居候ニ付、左候而ハ私共稼之義ハ石切場

何連も手遠之ケ所ニ而所持仕罷在、畢竟

取仕抹もいたし兼候故、不得止御断申上候段

申上候所、左候得ハ断方指出方も可有候処、

賊切与御断申上候義ハ余り事々敷不行届

趣被為仰渡迷惑仕候申上候所、猶追而御詮義

之筋も可有御座、先御詮義中遠行御指留

被為成候旨被為仰渡奉畏申候、

右申上候通相違無御座候以上

井波町石屋平蔵倅

平作

文政七年十月六日

御郡奉行所

 これは「井波町石屋平蔵の倅平作と、庄兵衛とその弟栄次郎・清次郎との石切場をめぐ

るトラブルを訴えた文書」である。ここでは、岩黒金屋村の庄兵衛と栄次郎・清次郎の兄

弟がこの石切場で稼ぎをしているというのである。庄兵衛兄弟にとっては、庄右衛門は本

家筋になりそれなりの言い分はあったのであろうがわからない。

(庄右衛門)本家

初代          二代            三代      四代

栄次郎(準慶)─────栄次郎─────────┬─栄吉─────邦夫

嘉永三年十一月六日没  (茶木村谷内家より)  │明治九年一月三日生

│天保十年生       明治三十六年四月五日没│昭和十二年九月二十七日没

│                       │

├─庄兵衛(兄弟・兄)             │

│                       ├─太七

│                       │

└─清次郎(兄弟)               │

                        │

                        └─辰造

庄右衛門の系譜

庄右衛門┬─庄右衛門──庄右衛門──庄右衛門──為次郎──幸夫

    │

    └─庄兵衛─┬─庄兵衛

          │

          ├─栄次郎───栄次郎───栄吉───邦夫

          │

          └─清右衛門──清右衛門

初代、二代栄次郎それに三代目栄吉とともの石仏を作り、砺波地方に多く見ることがで

きる。また本家筋にあたる庄右衛門、庄兵衛の石仏も多々確認することができる。

・庄兵衛

初代栄次郎の親にあたる庄兵衛もまた、優れた石工であった。文政七年「井波町石屋平

蔵の倅平作と、庄兵衛とその弟栄次郎・清次郎との石切場をめぐるトラブルを訴えた文書

」ここでは、岩黒金屋村の庄兵衛と清次郎の名が見える。庄兵衛は砺波市太田金比羅社の

灯籠には「天保二年辛卯五月建之石工京坂庄兵衛」とまた同じく太田に中筋往来

の三十三カ所観音の内三十一番千手観音に「石工金屋庄兵衛安政二載二月施主安念安兵

衛」とある。

『山田村史下巻』(十一頁)に、山田村鍋谷の牛嶽社の「牛嶽大明神本宮」再建に係る

棟札が掲載されている。それは次のようにある。

時天保第十五年甲辰九月廿五日村肝煎善兵衛

組合頭利兵衛

同五郎助

奉再興牛嶽山三津賀峯霊場牛嶽大明神本宮婦負郡鍋谷村産神

石工砺波郡金屋村庄兵衛

総取持願主同河内村九郎兵衛

当山奉仕神主施基皇六十三代後胤従五位下

藤井豊前守砺波宿祢秀猶謹九拝

これは、金屋村庄兵衛が鍋谷村牛嶽社のご神体を作ったことを棟札に掲げたものである。

またこの庄兵衛について次のような文書が庄川町金屋の真言宗日照庵に残されてある。

青島村地蔵尊縁記

抑抑当所ニ安置奉リシ尊像ノ由来ヲ委シク尋ヌルニ、

文化十四年今ヨリ一百年以前、金屋村ニ森川庄兵衛ト申

ス者アリ。此人ハ天性至テ篤実ニシテ。常ニ有名ノ石工

ト成ラント思イ、四方到ル所ニ名工ヲ尋ネシニ、其頃

越前ノ國ニ有名ナル某石工アリ。此石工ニ就キテ数年間

佛神彫刻ノ術ヲ伝修業シテ皈宅セシニ、或夜夢ノ御告

ヲ蒙ッテ、一日二一体ツヽ千日ヲ経テ我レ一千体ノ佛像

ヲ彫刻セントノ大願ヲ発シテ、茲ニ始メテ尊像ノ彫刻ニ

着手スルヤ、一心専念ニ彫刻セシニ、此尊体未ダ十分成

ラザルニ、嗚呼痛ヒ痛ヒト二声発シ玉ヒバ、庄兵衛大ニ

驚キ、アラ不思議ト思ヒ、時間ヲ聞クニ既ニ午後十二時

ヲ経過シタリ。扠テ扠テ御勿体ナヤト其レ成リニシテ済シ

置キシ尊像ハ忝モコノ地蔵大菩薩ナリ。

(中略)

大正五年八月

この文書は、庄川町青島村の一本橋のほとりにある地蔵様の祭りの時に、今でも読み上

げられる「地蔵縁起」である。これによると、この地蔵の製作者は森川庄兵衛で、彼は一

千体の佛像を彫るという大願を発して、まず一体目に彫ったのがこの地蔵だという。典拠

は明らかでないが、彼は「文化十四年」に「越前の国の有名な某石工」に佛神彫刻を学ん

だという。

・森川準慶

森川準慶は栄次郎家の初代目にあたる。文政七年九月の日付けのある文書(井波肝煎文

書)に、庄金剛寺村領内の石山で、庄兵衛・栄次郎・清右衛門兄弟が石を切り出している

が、ここにあらわれる栄次郎は、後の庄兵衛家から分家して初代栄次郎となり、幕末から

森川姓を名乗ったと思われる。

天保十五年(一八四四)に利賀村栗当に磨崖仏の不動明王、弘化二年に城端町上田に弘

法大師、また在名年次がないが砺波市五郎丸に地蔵、砺波市深江に庚申(青面金剛)があ

る。嘉永三年(一八五0)十一月六日に亡くなっている。

・森川栄吉

明治九年一月三日、二代目栄次郎の長男として生れた。父について石工として修業を積

み、数々の優れた石仏の作品を残したが、のちに流木事業に進出し、大いに活躍した。飛

騨から材木を流す流送作業は非常に危険を伴のうものだったので、安全を祈願して父栄次

郎の彫った聖徳太子南無仏を常に携行し、その先導によって流送を続けたという。

昭和七年に庄川町金屋共同墓地に阿弥陀如来、々在名年次のない井波町飛騨屋に不動明

王、小矢部市八和町永伝寺に花山法皇、小矢部市胡麻島に不動明王、婦中町各願寺に三十

三カ所観音がある。昭和十二年九月二十七日に享年六十二歳で亡くなっている。

金屋石工の人々

砺波地方においては、石山の採掘に関る古い文書は『井波町史』下巻に載せる。「町中

末々困窮に付助成願書」(享保十八年)である。これは石山希望者に百五十匁の銀役と引

き替えに採掘させたものである。以後特定の人に与え、売買の対象となった。井波町に石

工がこの時期よりいたのである。

その後約十年後の延享元年には、砺波市芹谷の真言宗の古刹千光寺の石塔には「石工井

波町善太郎」と銘が入っている。また福光町法船寺文書(『医王は語る』所収)には「(

延享五年)石仏出来開眼井波石屋作」とある。また文政頃になると甚右衛門なる石工

が、多くの石仏を作っている。氷見市長坂の高西寺には、常川五市郎作の不動明王がある。

砺波地方の神社のご神体も、井波の石工の作であるということを所々で聞くことがある。

金屋の石工の前史として、井波の石工が気になる所である。今後の研究によるところが

多い。

、法要が営まれていた。その歴代法

名は次の通りである。

・金屋の石工

金屋の石工の名が出るのが、前述の文政七年「井波町石屋平蔵の倅平作と、庄兵衛とそ

の弟栄次郎・清次郎との石切場をめぐるトラブルを訴えた文書」ここでは、岩黒金屋村の

庄兵衛と清次郎の名が見える。庄兵衛は砺波市太田金比羅社の灯籠には「天保二年京坂

庄兵衛」とある。

『庄川町史』所収の弘化二年(一八四五)「村々諸商売書出帳」(現物は実見していな

い)によると、金屋岩黒村には伊右衛門・六兵衛・与三郎・伝右衛門・兵三郎・庄兵衛・

久次郎・栄次郎の八軒の石屋があったとされている。また「金屋石の採掘は、天保年間に

始められたと推測されるとある。

その後天保十四年以来、金沢城修築工事の際に樋石として採用されている。また天保十

年から約十年がかりで成功させた、黒部市・宇奈月の十二貫用水・竜の口用水の石管も金

屋石が使用された。

石仏に関しては、安政二年(一八五五)に砺波市太田中筋往来に金屋庄兵衛が十一面観

音を作っている。

明治期になると、金屋石の需要が増え大きく進展をとげるようになる。明治十二年には

金屋岩黒村には、石工や木工業にたずさわる職人が十八人であるが、二十五年には四十九

人に増加している。大正に入っては、金屋石材株式会社が設立され、最盛期には二十八人

の職工組員がいた。しかし昭和五年三月には解散し、昭和十二年には自然消滅をしたとい

われる。

戦後は、金沢城の石川門の修復工事や二十五年七月の県営富山球場のスタンド外側の一

部に金屋石が使われているが、その後はコンクリ-トが建築資材に使われたり、輸入石材

が安く入り、現在ではほとんど採掘がされていない状態である。

そして毎年金屋の石屋たちは物故者の法名軸を掲げ

石屋歴代法名記

┌─────┬─────┬─────┬──────┬─────┬──────┐

│法名   │俗名   │法名   │俗名    │法名   │俗名    │

│     │現在の世帯主│    │現在の世帯主│     │現在の世帯主│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│釋芳秀  │     │  釋明実│雄川長一郎 │  釋開正│ 石森条次郎│

│     │     │     │祖父友吉  │     │  祖父幸一│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋智順│     │  釋法縁│ 藤掛十太郎│  釋明道│  西元源蔵│

│     │     │     │祖父宗信  │     │祖父の父明男│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋敬聞│森川栄次郎│  釋周芳│  石沢仁八│  釋博道│ 石森幸太郎│

││祖父邦夫│     │祖父為次郎│      │ 祖父鉄男│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋道縁│     │  釋勇信│      │能生院得栄│  森川栄吉│

│     │     │     │      │     │   父邦夫│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋真実│     │  釋純説│  森川辰茂│  釋淳念│      │

│     │     │     │  祖父辰夫│     │      │

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋浄縁│     │  釋真契│ 有沢辰之助│  釋信桀│      │

│     │     │     │  祖父健四│     │      │

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│有沢彦三郎位霊│    │   釋淳證│  西元源治│  釋賢道│   石森為│ 

│     │     │     │  祖父明男│     │   父勝典│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋善敬│     │  釋慧静│ 石森佐三郎│  釋速證│  雄川正一│

│     │     │     │   父常信│     │  祖父明男│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋勇行│     │  釋證信│ 藤掛与太郎│  釋誠念│  石森庄作│

│     │     │     │   父健三│     │   父鉄男│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋智澄│     │  釋誓淳│  東惣作│   釋教信│ 藤掛吉太郎│

│     │     │     │  父信弘│      │   祖父昇│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋専誠│ 雄川辰蔵│  釋清念│  川崎外吉│  釋聞正│ 金井才太郎│

│     │ 叔父友吉│     │   父栄吉│     │  祖父史郎│

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋信縁│ 西元源作│  釋道現│ 雄川外次郎│  釋英成│      │

│     │ 祖父の弟明男│     │  父友吉│      │      │

├─────┼─────┼─────┼──────┼─────┼──────┤

│  釋義應│ 東与一郎│  釋皆了│      │浄信院誓因│ 藤掛清太郎│

│     │ 祖父信弘│     │      │     │   父宗信│

└─────┴─────┴─────┴──────┴─────┴──────┘

┌─────┬─────┬

│   法名│   俗名│

│     │現在の世帯主│

├─────┼─────┼

│  釋隆心│  中川隆│

│     │  父真隆│

├─────┼─────┼

│  釋遇善│西元平太郎│

│     │  父進一│

├─────┼─────┼

│  釋俊祐│中川吉蔵郎│

│     │ 祖父真隆│

├─────┼─────┼

│  念道院│石森吉太郎│

│  釋浄賢│  父幸一│

├─────┼─────┼

│  釋教念│ 藤掛吉衛│

│     │   父昇│

├─────┼─────┼

│ 常明院 │ 石沢外吉│

│  釋勇精│ 父為次郎│

├─────┼─────┼

│  浄信院│ 金井義江│

│  釋義道│  父史郎│

├─────┼─────┼

この軸は庄川町の石屋組合が法要の際に掲げられたものである。現在は、東信弘宅に蔵さ

ているものである。実際の軸には、写真のように法名だけが記されてある。

井波・金屋の石工の系譜

井波町と金屋の石工たちの系譜を年表にしてみた。

 和歴   西暦    事項

 享保18年 1733  石山希望者に150匁の役銀とひきかえで採掘させた。以後採掘

            権は、特定の人に与えられ売買の対象になった。(「町中末々

            困窮に付助成願書」P30。『井波町史下巻』P113)

 元文元年  1736 

 寛保元年  1741 

 延享元年  1744 三合新の千光寺石塔に「石工井波善太郎」が作る。

    5年 1748 「石仏出来開眼井波石屋作」(『医王は語る』P387・福

            光町法船寺文書

 寛延元年 1748 

 宝歴元年 1751 

 明和元年 1764 

 安永元年 1772 

 天明元年 1781 

   7年 1787 新たに石山を開き、北川村の石屋善太郎に一年銀二十匁で採掘権

           を与えた。(「石切山請場所詮議願書」『井波町史』P496)

 寛政元年 1789 

 享和元年 1801 

   3年 1803 石工伊右衛門と清左衛門石切り場境争論一件(井波肝煎文書)

 文化元年 1804 

   3年 1806 「石工四人御座候」(井波肝煎文書)

 7年 1810 石山の採掘者は、甚右衛門、かじ屋又兵衛、義右衛門、清次郎、 平蔵、がある(井波肝煎文書)

文化14年  1817 金屋村庄兵衛が越前の国の石工について仏神彫刻の修業をする

            (「青島村地蔵縁記」)

 文政元年  1818 

   2年  1819 甚右衛門が小矢部市経田に石仏「阿弥陀如来」を作る。

   7年  1824 金屋岩黒村庄兵衛兄弟不法の石切り一件(井波肝煎文書)

 天保元年  1830 

   2年  1831 砺波市太田金比羅社の灯篭に「京坂庄兵衛」とある。

    8年 1837 井波町甚兵衛は所有した石切り場の半分を銭二三貫で石屋和兵

            衛に売り、石山役銀三匁一分あまりを上納するよう伝えた。(

   13年 1842 井波肝煎文書)善太郎家は、代々採石にあたったが、他の人々

            が勝手に石を切り出していた。そこで、善太郎は、石山銀を納

            入しているのに詮ないと嘆き、上納金の返却を請求した。(「

            井波肝煎文書)

    14年 1843 この年以来金沢城修築工事に金屋石を使う。『庄川町史』P19

             9(高岡木町文書)海上輸送には、銭屋五兵衛が当たる。文久

            二年(1862)のまでの二十年続く

 15年 1844 石屋平四郎が所有した石切り場を銭六貫文で石屋次郎右エ門に売り、石山役銀○このころに金屋石の採掘が始まる。

             金屋村庄兵衛が山田村鍋谷村の牛嶽社のご神体を作る   弘化元年 1844 四匁一分あまりを上納するよう伝えた。(「井波肝煎文書)

   2年 1845 石山の採掘者は、北川村には茂兵衛、長左衛門、甚右衛門、甚

           左衛門、次兵衛松島村に清右衛門、伊右衛門、がいた。(『井

           波町史下巻』P528)金屋岩黒村には、伊右衛門、六兵衛、與三

            郎、伝右衛門、兵三郎、庄兵衛、久次郎、栄次郎の六軒の石屋

            がある。(『庄川町史』下巻P199「村々諸商売書出帳」弘化二年)

 嘉永元年 1848 黒部市の布施山開きの内、竜の口の石樋が、金屋岩黒村よりい

           く。「黒部市石田川端家文書」

   

   5年 1852 庄金剛寺村伝右衛門らから、勝手に石材を採掘されては困ると

           の訴えを出す。しかし御用石の搬出は従来通りになる。『庄川

 安政元 年 1854  町史』P203

   2年 1855 「井波請地石切り場譲渡一件」(井波肝煎文書)北川村石屋弥

            三郎から宗太郎へ、

   2年       金屋庄兵衛が、太田の十一面観音を作る。(中筋往来)

   3年 1856 福野町八塚の地蔵に「石工儀平」の銘がある。

 万延元年 1860 

 文久元年 1861 

    2年 1862 富山藩八尾の奥野積山の三ケ用水拡張工事を、青島村の伝四郎

           らが請負う。(『庄川町史』P207)

  3年 1863 福野町南町準提寺に「作井波石工七治郎」の石龕ある。

 元治元年 1864 

 慶応元年 1865 

   2年 1866 井波町今里神明宮に「井波石工七次郎」の不動明王の石仏があ

           る。

砺波市秋元の観音堂

 明治元年 1868 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です