「有峰の狛犬についての一考察」再考

平井一雄氏撮影

尾田武雄

砺波市の神殿狛犬調査報告書を作成中に参考文献の『氷見市史10 資料編八文化遺産』中の「補論氷見の石造物」所収「狛犬」項で416頁「島尾神明社の石造狛犬」についての報告がある。「阿像は正面から見るとシシのように見えるが、側面からはサルのようであり、呍像の側面観はさらにサルに似る。このような像容の石造狛犬は他に見かけることがない。ところが木造狛犬では常願寺川源流の富山市有峰の狛犬にその類似性を求めることができる」とある。石材は石動山下の氷見市薮田から採掘される薮田石である。

 私は先に『大山の歴史と民俗 有峰特集号Ⅱ』第7号(大山町歴史民俗研究会 2004年2月)で「有峰の狛犬についての一考察」で、有峰の狛犬は石動山信仰にかかわりがあると論及したが、それを考古学から補正されたそうである。ちなみに有峰の狛犬については『富山市の文化財』では「有峰狛犬は、有峰村(現在、廃村)の東谷宮 本殿見世棚に置かれていました。通常、 社寺の狛犬は 1 対ですが、この狛犬は一社に 4 対もあり守護獣としての性格だけでは なく、村の食料を食い荒らす動物を調伏するために彫られたとも考えられています。8 体の木製狛犬は、阿 形 ・吽 形で 4 対をなしており各々、サル、シシ、ヌエ、クマ と称されています。通称サル・シシの 2 対は、角をもった狛犬と獅子の異形の組み合 わせで、平安時代の様式を伝えています。通称ヌエ・クマの 2 対は、尾やたてがみ等 がなく全体的に彫りは滑らかで抽象的です。 平成 12 年 9 月 19 日に大山町指定文化財(現、富山市指定文化財)に指定されました。 現在は、富山市大山歴史民俗資料館(富山市亀谷 1)に展示しています。」とある。

 下記に『大山の歴史と民俗 有峰特集号Ⅱ』第7号(大山町歴史民俗研究会 2004年2月)に発表した拙文を再掲する。

有峰の狛犬についての一考察

はじめに

 富山県と大山町、北陸電力が計画している「有峰森林文化村」が「水と緑といのちの森を永遠に」のスローガンで平成14年8月3日に開村した。大山町有峰は薬師岳山麓の、常願寺川支流和田川の水源地で、標高1000メートルの盆地である。明治5年には戸数13戸あったが、大正9年に富山県が保安林と電源開発のため全村買い上げ、住民は離散した。昭和34年にダムが完成し、有峰盆地は有峰湖という人工湖に変った。

 この有峰村は応永23年(1589)の文書にその名が初見である。『肯構泉達録』に「平家の落人多く隠るといえり、今なほ武具を伝ふ」と記している。村の西谷に大山町上滝大川寺の下寺西光寺があり、東谷川と西谷川の合流地点に程近い東谷宮があった。その本殿見世棚に8体4対の狛犬がおかれてあった。この狛犬は明治43年の山岳雑誌に写真を載せ紹介されたが大正十年に県有地として買収されてから、狛犬達は紆余曲折し松本民俗資料館に納まっていた。その後現在は大山町歴史民俗資料館に帰郷している。

 この狛犬について早くから注目されこのことについては前田英雄氏「有峰の狛犬と懸仏」(『大山の歴史と民俗』第3号)に詳しく記述されているので参考にされたい。さてこの4対の狛犬であるが通称シシ、サル、クマ、ヌエと呼ばれその異様な像容に関心を持たれる研究者が多かった。

有峰の狛犬

 有峰の平家落人伝説は、平家の出といわれる飛騨の江馬氏の武将河上中務丞富信が中地城で敗れ、元亀3年(1572)頃に有峰に住み付いたとされている。また応永23年の文書には「飛州吉城之郡高原郷宇礼村漸住人」とあり、この時期飛騨の圏内に属していた。こんな関係で、この狛犬も当然のように飛騨の文化をダイレクトに影響を受けたものとして理解されてきた。

 最近、石仏とともに神社の参道に多く見かける狛犬が注目されてきた。三遊亭円丈氏等の日本参道狛犬研究会(通称コマケン)などの活躍は目を張るものである。また北陸石仏の会会員等の調査研究も進んでいる。今まで異様とおもわれていた像容の狛犬が所々で、報告されてきた。そんな時平成12年10月に石川県立歴史博物館で「能登最大の中世荘園 若山荘を歩く」展が開催されていた。その図録に俗にいう異様と思われる像容の狛犬を発見したのである。例えば木郎郷(現内浦町)不動寺村日吉神社、珠洲市上戸気多神社、珠洲市北嶋荒御前神社、珠洲市馬緤町、珠洲市大谷神社、内浦町柿尾神社等の木造狛犬がある。これらはほとんど中世の所産であり鎌倉期のものは儀軌にかない威風堂々としているが、室町期に入るとやや自由で箱型で動きが無いのが特徴である。

 私が有峰の狛犬に出会ったのが平成11年の大山町歴史民俗資料館で行われた「よみがえる有峰の狛犬と歴史・文化」展であった。これを拝見したとき、能登の石動山の影響がないものかと感じていた。

能登と富山県東部

 廣瀬誠氏著『立山黒部奥山の歴史と伝承』の「越中奥山の地名と用字」で「峅」の字について言及され、越中で作られた独特の国字として紹介し、『加能郷土辞彙』に珠洲市の高倉神社を能登の高峅と記載しているという。そして立山の峅より古いこととされている。このことについて早くから能登修験の影響が越中に及ぼしていたのではないかと、常々感じていた。

 富山県西部には砺波平野があるが、中世末期の越中砺波の地は加賀白山・越中立山からは概ね等距離に位置するのであるが、信仰圏としてはその両山いずれでもなく能登鹿島郡石動山の圏内にあったと思われる。(木場明志「越中砺波の定着修験活動」『白山・立山と北陸修験道』所収)事実、この地方の多くの神職は石動山修験者を祖としている。また中世石造物も石動山下の氷見地方に酷似した遺物が多く点在している。この地方は弥陀一仏の真宗王国で、民間信仰が薄いとされているが修験者の残した信仰遺物も多く遺されている。たとえば砺波市の庄西や庄東地区の般若野荘のあった地域には、石動山信仰の分霊社が多くある。このことについては拙文「般若野荘における五社権現の研究」(『土蔵』3号)で論及した通りである。

 富山県東部については、石動山信仰がどのように展開し浸透していたかは解らなかった。

表①「富山県東部の石動山信仰の分布」は富山県神社庁編『富山縣神社誌』を参考に作成したものである。これを見ると石動神社石動彦社が4社、五社ノ社が8社また火(日)宮社が6社ある。これらは確かに石動山の分霊社であろう。また白山社も数多くあり、社名が変っているが祭神や伝承から窺い知ることができるものもある。白山社も実はダイレクトに白山から移入されたのではなく、石動山や能登の修験の山々からの勧請があるのではないかと推察する。このように富山県東部にも石動山修験の影響が大きかったことが理解できる。また蛇足であるが飛騨の歴史資料である長谷川忠崇著『飛州志』によると古川郷古川村に五社宮、高原郷岩井戸に石動権現を奉じた権現宮、高原郷丸山村に日ノ宮、大野郡江名子村に石動宮、大野郡塩屋村に五社宮などの報告がある。

富山県東部の中世石造物

 逆さ日本地図があるが、それを見ると能登半島と富山県東部特に朝日町などがより近く感じる。このように見ると能登と富山県東部は案外水運などで交流があったのではないかと思われる。また各市町村史や石造物調査報告など富山県東部の宇奈月町や朝日町、黒部市、魚津市等々に五輪塔や宝篋印塔などの中世石造物が多く報告され、それらが能登半島のそれによく似ているのに驚らかせる。

 また立山の玉殿や大山町の道端には、能登半島や氷見市,砺波地方の神社などのある地蔵半跏像を散見することができる。それは石動山下の氷見市薮田周辺から採掘された俗に言う薮田石で造られたものである。これらはつまり薮田周辺から運ばれたことを意味するのであろう。そしてこれらを運んだのは、石動山や能登の山々の修験者によるものではないかと推察できる。

有峰の信仰

 有峰は、「上滝の大川寺と江馬家との関係が深くそして有峰の一族は川上江馬の随身であったから、今でもこの寺の檀徒であることに何の不思議もない。大川寺は元法川寺と言ったが、江馬氏の元祖小四郎輝経が飛州高原郷に居を構えると先づ、菩提所として建立したものである。開山は法印大阿闍梨大休上人で真言宗であった。」(翁久允「有峰の研究」『有峰を探る』所収)とされている。また有峰人は禅宗だったから、伝来の伊勢詣を年中行事の一つとして、有峰を引き払うまで続けたのであったという。春になると田祭りも済んだ六月も末になると、今度を石動権現に参るのであった。すぐ後ろに立山をもっていながら、有峰人は立山権現を拝せずして石動権現を拝する習俗になっていたともいう。この翁久允氏の論文は示唆に富み他に「能登の穴水の城主だった長甲斐守が有峰の山奉行であった。飢饉年には九十六石の米や稗を下賜された。そんな関係が石動信仰と結びつくのではないかと思われる。(略)氏神の社殿が五十年毎に改築されるようになっていたのであるがこれも大工は必ず能登でなければならなかった。石動参りも伊勢詣と精神が一つで頂いて来たお札は、各戸に分配されるのであった。立山詣りはしなかったが薬師岳には毎年の夏、旧七月十五日には必ず参拝しなければならなかった」としている。

 また『大山町史』(昭和39年発行)には安政二年の「有峰村巨細帳」を紹介しているが、そこには「禅宗西光寺は数年来無住、氏神は本地十一面観音」とあり、この氏神が東谷宮を意味するのであろう。十一面観音は白山の本地仏であり、石動山の客人神でもある。石動山信仰の派生した証ではないかとも推察できる。また有峰の初期の村長上野家に伝来されたという「冑権現」といわれる懸仏は富山県内には多くの報告はないが、石川県特に能登半島に多くの報告があり、神社などの御正体としてある。これら状況を考えると、能登の修験の影響が大きいのではないかと思われる。

有峰の狛犬についての一考察 

 近年は参道狛犬については、調査は進みその報告書が数多く発表されている。その影響で堂内の狛犬についても関心が向けられようとしている。近県では石川県の白山比咩神社の制作年代が鎌倉期とされる漆箔の狛犬(木造)、平安時代作の彩色狛犬(木造)、岐阜県日吉神社の制作年代桃山期の狛犬(石造)が重要文化財に指定されている。また加賀白山狛犬といわれる形や表情がシンプルなスフィンクスに似たものが、殿内に配置されるものが北陸を中心に多くの報告がある。また県内にも多くの古様な狛犬があり、長島勝正氏著『越中の彫刻』で報告されている。しかしまだまだ神社の堂内には、多くの狛犬が静に寝むっている。北陸石仏の会例会で朝日町大平の十二社では異様な石造狛犬を見つけたり、砺波市太田住吉神社の寛文年中銘のある木造狛犬も異様といえば異様である。参道狛犬を見なれた者にとっては中世末から近世初頭の自由な狛犬には拝見する機会が多くは無かったのかもしれない。

 有峰の狛犬もちょうど、中世末から近世にかけての像造であろうとおもわれる。どちらかといえば稚拙で、修験者が自分の理解で彫り上げたものものようである。それも石動山修験の手にかかるものではないかと思われる。

(『大山の歴史と民俗 有峰特集号Ⅱ』第7号(大山町歴史民俗研究会 2004年2月)

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