義賢行者について                         

義賢名号石碑
義賢の木像肖像(写真提供滝本やすし氏)

義賢名号軸(写真提供滝本やすし氏)

                                       尾田武雄

義賢(天明6年生~天保12年12月6日寂・54歳)浄土宗の捨世派の僧。越後の関根新左衛門『立山参拝記』(天保3年(1832))によると、生誕地羽州山郡観音寺村(現山形県東根市観音寺)、天明6年(1786)生れ、天保12年10月54歳、福井県足羽郡足羽山北麓の森厳寺で入寂。近世後期において、諸国を巡廻して念仏を広めた浄土宗系の捨世派僧侶である。立山参詣をしたとされているが、その業績や足跡の多くは知られていなかった。丸い異様な名号塔に近年石仏研究者の注目を浴びていたが、北陸石仏の会会員の伊藤曙覧氏、京田良志氏、南金三氏、久世嘉 太郎氏、平井一雄氏、滝本やすし氏、芝田悟氏らによって調査・研究され、徐々に研究が進められている。

北陸地方での義賢行者の足跡については、報告内容には若干のくいちがいがみられるが、おおむね次のようである。義賢は天保11年8月に越後から越中に入って、立山で修行、富山県内の各地を巡錫して9月24日に津幡を通り、9月25日 に金沢に入った。『加賀藩史料』の「大鋸文書」には、11月6日に金沢の如来寺を出て 松任に泊まり、7~8日に小松、そして9~10日の大聖寺までの行程が記されているが、それ以降の記録が残されていない。

その後、越前に入り大谷寺で修行をされていたが、体調を崩し足羽の森厳寺で静養された。しかし回復することはなく、12月6日に森厳寺で入寂された。義賢の葬儀を行った 福井市の横山家一族には、義賢の葬儀の記録や分骨が残されているまた明治29年に義賢の墓は森厳寺に建てられたが、廃寺となり真照寺に移された。その後真照寺も廃寺となり、有楽町の浄土宗教会に移された。浄土宗 教会はその後狐橋2丁目に新しく建て直さ れ、義賢の墓標も同時に移された。 県内には立山町や富山市を中心に義賢名号塔は名号掛け軸・肖像掛け軸など浄土宗寺院などに残されている。芦峅寺閻魔堂前にある天保十一年八月に建立された、義賢名号塔の寄進者である越後国中頸城郡西福島村(現頚城村)の関根新左エ門宅には「天保十一子年九月 越中立山参詣記 福嶋邨関根氏控」なる文書が残されている。

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