利鍵大師と感染症コレラ

利鍵大師(立山町岩峅寺)

  尾田武雄

富山県東部には立山連峰が広がり、山麓には芦峅寺や岩峅寺があり山岳信仰の拠点である宿坊を兼ねた宗教施設があった。立山は女人禁制であったが、江戸時代までは入山を許されない女性のために布橋勧請会がおこわれ、立山には浄土と地獄が体現できるとされていた。明治期に廃仏毀釈で瓦解したが、信仰は息づいている。立山町岩峅寺の宮路佛事会館脇に、剣を持った弘法大師坐像がある。円盤型で浮彫であり銘に「嘉永二年四月」「施主佐伯藤右エ門」とある。弘法大師は右手首を内に捻りながら胸前で五鈷杵を構え、左手を膝の上にのせて数珠をとる形が多いが、右手に宝剣を持ち、左手に数珠を持つ姿である。宝剣は文殊菩薩の利剣とされ、嵯峨天皇の代に悪疫が流行し、大師が天皇に「般若心経秘鍵」を奏上され、衆生のために剣を以て諸々の災難や疫病を鎮められたお姿であり、厄除け秘鍵大師とも呼ばれている。全国的にも石仏の作例は少なく、宮路の道端にあり台座に「三界萬霊」とあり浮彫の像には「大善院二代目阿□□□之」「□□年一月」「明治廿一年二月九日施主宗右エ門」とある。

 石仏の造像の意図は、死者供養が最も多く、次いで境界観による村境、辻などによる場合が多い。また悪霊や疫病を遮る賽の神を安置することもある。たとえば南砺市井波には村境に火炎を背負い、右手に羂索を持ち、左手に宝輪を持つ、全国的にも珍しいを無量力吼菩薩がある。小さい祠のコレラ堂に安置され、コレラを防ぐためのである。死者供養や境界観によるものは、地蔵、聖観音、如意輪観音などの菩薩が多々見られるが、秘鍵大師石仏の場合、疫病などを遮る意図で造像されたと思われる。

 安田良栄著「江戸末・明治時代のコレラ禍について」『北陸医史』第二四巻第一号(平成一五年発刊)によると、安政五年、明治十二年、十九年、二十八年に大流行し、死者を出すとともに、社会に様々な影響をもたらした。とされ、宮路の道端にある秘鍵大師石仏などは、時期的に合致するように思われる。

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