旧千保川の街道と石仏

 

旧千保川右岸(中筋往来)の石仏

                                      尾田武雄 

砺波平野には古くから南北に重要な道があった。現在の国道一五六号線上の高岡から戸出町・杉木新町(出町)へと行く道。ここから南砺市井波へ抜ける道と、福野へ行き旧福光町宗守、鍛冶と進み城端へと行く道がある。また「太子伝道(井波道)」といわれる戸出から旧千保川左岸の砺波市石丸、矢木、大門、庄川町示野そして井波町に行く旧道である。また旧千保川右岸で現在の庄川左岸には、中筋往来という旧道がある。これはいわゆる現在の庄川と旧庄川の流路であった千保川の間の筋という意味が込められている。文政十三年(一八三〇)の『加越能三州地理志稿』には「井波路」として次のように記している。

高岡駅申明亭―関町―瑞龍寺岐路―京田―下黒田村―上黒田村―坂口村―三屋村―二塚村―砺波郡徳市村岐路―群界―春日吉江村前―大清水村―吉住村前―石代村―常木村―西保新村―西部金屋村―地頭坊村―秋元村―柳瀬村―久泉村後―祖泉村―太田村―中野村―庄川川除―青島―金屋岩黒村―井波 高岡から井波まで六里四町とある。

 中筋往来は現在の庄川左岸の旧道であり、旧千保川右岸の両大川に囲まれた窮屈で狭い領域であるが、両川からの水害の少ない微高地に位置している。上流部の南には奈良時代後半の遺物が出土している太田遺跡、縄文時代中期の打製石器が大量に出土した久泉遺跡、古代から近世にいたる遺物が確認される秋元窪田島遺跡、そして高岡市西部金屋には樹齢千三百年されていた毘沙門杉があった。下流域の北に行くと二塚には後醍醐天皇の第十皇子恒性皇子墓とされる塚がある。

 また近世初頭の元和・寛永期に入ると、四人の十村役がいる。太田村(現砺波市太田)宗右衛門(金子家)、下中条村(現砺波市中条)又右衛門(川合家)、開発村(現砺波市開発)左衛門(安藤家)、二塚村(高岡市二塚)又兵衛(大坪家)がいる。この中筋往来周辺域は重要な地域であった。信仰的にも貞享二年(一六八五)に加賀藩が書上げさせた「貞享二年由緒書上」があるが、そこに記載されている古い寺院がこの筋に多い。砺波市内だけでも真宗大谷派では太田専念寺・柳瀬万遊寺・秋元速恩寺、浄土真宗本願寺派では久泉光円寺、秋元光福寺である。「正徳二年社号帳」では砺波平野は新村などに神明が際立って多いが、ここでは八幡、五社、火宮など古い堂宮が記載されている。

中世石造物                                                  

・宝篋印塔・五輪塔

この中筋往来には多様な信仰の所産である中世石造物がある。ちなみに中世石造物は鎌倉・南北朝・室町期に造立された石造物を云うが、宝篋印塔・五輪塔・板石塔婆(板碑)などがその典型である。宝篋印塔の笠部の残欠は砺波市太田専念寺・同市久泉光円寺・同市秋元光福寺などにあり、五輪塔の空・風・火・水・地輪などの部分が太田共同墓地・祖泉共同墓地・光円寺・万遊寺・光福寺・高岡市西部金屋毘沙門杉跡付近・同市吉住熊野神社などに散見できる。

・板石塔婆(板碑)

板石塔婆(板碑)は多くはないが砺波市秋元法泉寺に鎌倉末期から南北朝期の造像と思われるものがある。昭和三十五年十一月に同地区を流れる堂川改修工事の際に発見されたものである。安山岩の割石を用いたもので、塔身面ほぼいっぱいにふくらみのある月輪を刻み、その中に雄渾な梵字「バン」(金剛界大日)を薬研彫している。法泉寺の隣に速恩寺があり、この寺は俗に「ジトボの御坊」と称され、『三州地理志稿』に、秋元村の小地名「地頭坊」を誌しているが、中世の下地中分を示す「地頭方」に遺名であり、この板石塔婆(板碑)もこの地域に関わりを持つものなのであろう。

 旧般若野荘を貫流していたのが、この堂川である。この堂川沿いに西部金屋談義所や崇福寺、などやジトボと俗称される速恩寺、またこの川から発見された板石塔婆など中世石造物、堂川は古い宗教的なイメージが流れている。この川は中世にあっては現庄川筋をこえて西に流れ、市内太田の南で北に偏して流下したといわれている。「正徳二年社号帳」によると谷内川・堂川淵の堂宮の分布は、大日や観音、地蔵、毘沙門の仏教系の堂宮が目に付き、五社や火宮の石動山系や八幡などがある。石動山信仰における真言宗系の修験の影響によるものであろう。法泉寺の板石塔婆(板碑)にも梵字バン(金剛界大日)が刻まれ、これも真言系なのである。

・石仏 地蔵半跏像と如来系仏

 現在光證寺にはニ体の古様な地蔵半跏像が本堂に安置されてある。石材は俗にいう氷見市薮田から採掘された薮田石の、緻密な白乳色のシルト岩質泥岩と、高岡市太田から採掘さる岩崎石である。顔面は削られ、宝珠も無い。光背の右半分が欠落し錫杖の頭部も無い。意識的に破壊されたのであろう。 このような石材で像容の地蔵半跏像は、中筋往来では砺波市祖泉神社前、砺波市下中条比賣神社などにあり、能登半島全域や砺波平野、富山県東部にも広く分布している。このような像容の地蔵は砺波地方の神社などに十二体、氷見地方に三十三体、能登半島に十九体、加賀地方には鶴来町周辺に数体の確認をし、立山周辺にも見うけられる。これらの地蔵は白山信仰やそれから派生した石動山信仰を運んだ、修験者によるものだと思われる。

 ほとんどの地蔵は顔面が削られ、錫杖、宝珠が欠落しており、人為的に積極的に破壊されたものと思われる。石川県志雄町で聞いた「頭が削られているのは、魂を抜かれているためだ」と説明されたことが気にかかるのである。これは、シルクロードのバーミヤン渓谷に大磨崖仏が、異教徒によって破壊されているイメージと似ていると思われるのである。

 中世石造物の五輪塔とともに多く散見できるのが、如来系仏である。これは墓である土饅頭の上にのせられた墓標の意味合いが強く、阿弥陀如来を刻んだものと思われる。この地方に流布する蓮如の広めた浄土真宗以前の浄土系の遺品なのであろうと思われる。

三十三ヶ所観音と観音石仏

 砺波市庄川町青島から中野を経て、太田までの約六キロメートルの間に多くの石仏が造立されている。特に注目されるのが西国三十三ヶ所霊場の本尊を模した石仏が安置されていることであろう。この三十三ヶ所観音石仏の建立を主唱したのが、砺波市中野立山酒造前にあった永昌庵二代庵主大真鉄猶尼(安政六年七月没)である。鉄猶尼は、当時名尼として知られる城端町のある庵主であった。それを中野村の曹洞宗檀家の方々が懇願して、永昌庵の庵主として招かれたのである。鉄猶尼は、着任早々に西国三十三ヶ所観音石仏の造像を発願された。自ら西国三十三ヶ所霊場を巡礼し、各霊場の土を若干採土されて、その土を三十三ヶ所観音石仏にちなんで、埋められたのである。 この観音には庄川の水難防止、交通安全、悪疫のないようにと願いがこめられている。

 鉄猶尼が自ら庄川町青島の一番の観音を造立している。旧永昌庵跡の観音堂内には第二十七番如意輪観音が安置され、銘文には「嘉永七年寅八月 西国二十七番 播磨書写寺」とある。大振りで在銘では最も古いものである。新しいものでは八番十一面観音、九番不空羂策観音の昭和五十七年建立のものである。今も花が手向けられ、石仏への信仰が活き活きと息づいている。

 観音といえば、砺波市秋元の十一面観音石仏も近在でも知られている。大きさが高さ二百四十四センチ、幅が百十七センチのこの地方では大きい石仏である。銘文には「明治十八年九月建之 願主當所若連中 石工森川栄次郎」とある。お参りをすると子供が授かるとされ、「子宝観音」と呼ばれている。石工が一生の間に一千体彫ったとされる明治の名工で庄川町金屋の森川栄次郎である。またこの石仏の建立者が「若連中」であることにも注目した。今で云う青年団体で建立されたことが意義深い。この時代は、庶民の暮らしの楽しみである獅子舞や盆踊りのチョンガリなど民俗芸能等々も盛んになる。また草相撲・米俵や大きい石を持ち上げるバンモチなども行なわれ、真宗寺院では若衆報恩講が活発に開催されている。地域の若者によって建てられた石仏は、地域で長く大事に維持管理され、若者や子供たちによって祭りもされてきた。

南無太子石仏

上半身裸で、腰に赤い袴姿の「タイッシサマ(太子様)」と愛着と親しみをこめて呼ばれる南無太子石仏が砺波地方に多く造立されている。「ゾーサマ(地蔵様)」とはあきらかに区別されている。この石仏は井波別院瑞泉寺の太子堂に安置される南無太子仏に関わりがあり、富山県西部に集中的に造立されている。明治二十年後半から大正前期に流行り神のように、二百二十余体の造像が成されている。それは神社や村の中心部に建立され、お堂もとりわけ立派である。祭りには民俗宗教に薄い真宗大谷派の僧侶のよって執り行われる。これは明治十二年に焼失した瑞泉寺太子堂の再建に向けた情熱の表れなのである。瑞泉寺太子堂が焼失し、再建されたのが三十九年後の大正七年である。わずか約30年間に実にたくさんの太子像が造立された。太子信仰が脈々と生きづいているのである。この南無太子石仏は、この中筋往来の路傍にとりわけ豪華なお堂には太子南無仏な安置されている。中野地区に三体、太田土水門と俗称される四つ角、久泉旧農協倉庫横、祖泉神社前、高岡市西部金屋神社前、吉住、石代、大清水等々にある。

 ところで、木造の南無太子仏が、高岡市春日にある。高さ四十六センチ、幅十五センチの丸彫りで綺麗に彩色されており、春日神社前近くの地蔵堂の中に安置されている。ここには三体の地蔵も一緒に入っている。太子南無仏の入るお堂は、国指定文化財である福野高校の巖浄閣を作った宮大工藤井助之丞の手によるものである。また木造南無太子仏はその台座に「高岡市通り町 大仏師北本吉蔵作」とある。同様な南無太子仏は太田専念寺太子堂に安置されている。また北海道名寄市西五条南にある清満寺の太子堂にも安置されている。砺波地方の太子信仰が北海道にまで波及しているのである。

不動明王

 中筋往来を歩くと、道端や四つ角、辻に不動明王石仏に出会うことがある。上中野の辻には大振りの露座の不動明王石仏がある。両脇に制叱迦童子と矜羯羅童子を立たせ、ぎょろりとした大きい目、やや笑みを浮かべ、仏像に対し失礼ではあるが愛嬌のあるお姿である。不動明王といえば憤怒の形相で怖い仏像であるが、これらは明治の名工森川栄次郎作の特徴でもある。ほとんどが明治期に入り造立され、上市大岩日石寺の不動明王信仰の流布によるものである。中野旧永昌庵、太田などに見えけられる。

珍しい石仏と石碑

 珍しい石仏としては、中野昌寿寺前に来迎仏虚空蔵菩薩、旧永昌庵観音堂の中に飯綱権現、前庭に稲束を担う僧侶姿の稲荷大明神、庄南小学校近くに庚申の青面金剛、この像は高岡市二塚玉川庵にもある。西二塚瑞光寺には八角石幢があり、聖、千手、馬頭、十一面、如意輪、准提の六観音と不動明王と十一面観音の八体の石仏を祀っている。このような石幢は県下でも珍しいものである。

高岡駅南に真言総持寺がある、地元では俗に「観音寺」と呼ばれている。本堂正面に三八体の石仏が並列している。石碑には「一国札所」と刻まれてあり六十六部納経所に関わりを示している。六十六部とは全国六十六カ国を遍歴し、一国一ヶ所の霊場に法華経を一部ずつ納める修行者をいう。廻国聖、六十六部聖、縮めて六部ともいわれている。ここには三八カ国の石仏が並んでいる。ちなみに能登は寺社が石動山、本地仏が虚空蔵菩薩。信濃、善光寺、阿弥陀如来。越中が立山、阿弥陀如来というような具合である。

 石碑はこの往来に「南無阿弥陀仏」と彫られた名号塔が多く見受けられるが、ほとんど幕末から明治期に隆盛を極めた草相撲関係の石碑である。また「近代書道の父」といわれる日下部鳴鶴の書を彫った石碑が三基確認できる。永昌庵跡、太田金比羅社、柳瀬佐藤助九郎邸前である。書を学ぶものにとって必見の碑である。

 この往来は多くの人々が歩いた道であり、道しるべの石仏も多い。中野には四体あるが、すべてが地蔵で井波と高岡への道案内である。太田四つ角には阿弥陀如来石仏の光背に「上井波 下高岡 東ふなば 西でまち」と彫られている。高岡市西広上には地蔵に「東中田 下大門 上井波 西高岡」とある。

旧千保川左岸(太子伝道)の石仏

中筋往来が旧千保川右岸の旧道ならば『加越能三州地理志稿』の「戸出道」が左岸にあたり、その道は次のように記している。

高岡―鴨島―千保川―佐野村―北蔵新村―十二町島村―郡界―市野瀬村―戸出村―石丸村―町村―矢木村―大門村―西新明村―古上野村―高儀新村―井波

この街道筋は、中筋往来と同じく微高地で古くから開けたところである。石丸村や町村の近くには古代遺跡の宮村、千代、油田大坪各遺跡があり、中世遺跡として中村イシナダ、堀内各遺跡が報告されている。この地域は左には新又口用水が流れ、細長い地帯で、中世には「油田条」といわれ、弘安元年(一二七八)平賀氏相伝の知行地であった文書が残されている。

この道は高岡や戸出に至る重要な街道で、人馬の往来も多かった。特に七月二十二日から行なわれる井波別院瑞泉寺の太子伝会の期間中は参拝者の通行が多く「太子伝道」といわれている。街道脇にある西新明海聚寺住職によると、戦前は朝暗いうちから多くの参拝者の歩く音がうるさく、怖いくらいで眠れなかったといわれるくらいであった。この往来では石造物では中世石造物の五輪塔の残欠も各墓地で散見することができ、近世の石仏も多く見られる。

古上野の石仏

砺波市庄川町古上野には俗に「古上野どんど」と呼ばれるところがある。庄川左岸幹線水路が中野発電所を経て流れた水が、用水の落差で水が落ちる音がドンドドンドと響かせるのを表現したものである。鷹栖口用水など五水路に分水される施設である。ここは小公園になっているが小堂の中に二体の地蔵が安置されている。一体は浮彫りの合掌する坐像であるが、もう一体は丸彫りの左足を立て、左手を頬に添え右手に宝珠を持つお姿である。一見如意輪観音のような雰囲気を醸している珍しいものである。古上野公民館前に不動明王坐像があるが、この地方に多い名工森川栄次郎作ではなく、それ以前の井波石工作のものようのう思われる。

中野・庄下の石仏

砺波市中野の小字大開の辻には、宮島要助と砺波山庄兵衛の、明治期の草相撲力士碑と名号塔三基が堂内に入っている。ここから北に進むと西新明の曹洞宗海聚寺があった。跡地には合掌する丸彫りの六地蔵が堂の中に入り、横には「二番」と彫られた聖観音が一体ある。ここからさらに北に進むと庄下地区の大門に入り、真宗大谷派正行寺がありその北側に大きく長いお堂があり、十五体に石仏が集められている。昭和三十八年から始まった圃場整備事業により、田んぼ道などに佇んでいた石仏たちが集合させられたのである。地蔵が十一体,南無太子像一体、不動明王一体、如意輪観音一体、馬頭観音一体であり、南無太子像の目にはガラスが嵌め込めている。また如意輪観音は流麗で彩色が残り銘文に「明治四未年三月二十二日亡 儀山全考居士 明治十八年十一月中旬大門村松田宗八 筆子連中建立」とあり寺子屋の先生のために生徒等が建立したものである。砺波地方では馬頭観音の造立は珍しく、この道を利用した牛馬の供養のために造立されたものであり、不動明王は森川栄次郎作である。このほか同じく宮村真宗大谷派景完経寺のも地区内にあったものが集められ、八体の地蔵が並べられている。

旧千保川右岸(中筋往来)の石仏

砺波平野には古くから南北に重要な道があった。現在の国道一五六号線上の高岡から戸出町・杉木新町(出町)へと行く道。ここから南砺市井波へ抜ける道と、福野へ行き旧福光町宗守、鍛冶と進み城端へと行く道がある。また「太子伝道(井波道)」といわれる戸出から旧千保川左岸の砺波市石丸、矢木、大門、庄川町示野そして井波町に行く旧道である。また旧千保川右岸で現在の庄川左岸には、中筋往来という旧道がある。これはいわゆる現在の庄川と旧庄川の流路であった千保川の間の筋という意味が込められている。文政十三年(一八三〇)の『加越能三州地理志稿』には「井波路」として次のように記している。

高岡駅申明亭―関町―瑞龍寺岐路―京田―下黒田村―上黒田村―坂口村―三屋村―二塚村―砺波郡徳市村岐路―群界―春日吉江村前―大清水村―吉住村前―石代村―常木村―西保新村―西部金屋村―地頭坊村―秋元村―柳瀬村―久泉村後―祖泉村―太田村―中野村―庄川川除―青島―金屋岩黒村―井波 高岡から井波まで六里四町とある。

 中筋往来は現在の庄川左岸の旧道であり、旧千保川右岸の両大川に囲まれた窮屈で狭い領域であるが、両川からの水害の少ない微高地に位置している。上流部の南には奈良時代後半の遺物が出土している太田遺跡、縄文時代中期の打製石器が大量に出土した久泉遺跡、古代から近世にいたる遺物が確認される秋元窪田島遺跡、そして高岡市西部金屋には樹齢千三百年されていた毘沙門杉があった。下流域の北に行くと二塚には後醍醐天皇の第十皇子恒性皇子墓とされる塚がある。

 また近世初頭の元和・寛永期に入ると、四人の十村役がいる。太田村(現砺波市太田)宗右衛門(金子家)、下中条村(現砺波市中条)又右衛門(川合家)、開発村(現砺波市開発)左衛門(安藤家)、二塚村(高岡市二塚)又兵衛(大坪家)がいる。この中筋往来周辺域は重要な地域であった。信仰的にも貞享二年(一六八五)に加賀藩が書上げさせた「貞享二年由緒書上」があるが、そこに記載されている古い寺院がこの筋に多い。砺波市内だけでも真宗大谷派では太田専念寺・柳瀬万遊寺・秋元速恩寺、浄土真宗本願寺派では久泉光円寺、秋元光福寺である。「正徳二年社号帳」では砺波平野は新村などに神明が際立って多いが、ここでは八幡、五社、火宮など古い堂宮が記載されている。

中世石造物                                                  

・宝篋印塔・五輪塔

この中筋往来には多様な信仰の所産である中世石造物がある。ちなみに中世石造物は鎌倉・南北朝・室町期に造立された石造物を云うが、宝篋印塔・五輪塔・板石塔婆(板碑)などがその典型である。宝篋印塔の笠部の残欠は砺波市太田専念寺・同市久泉光円寺・同市秋元光福寺などにあり、五輪塔の空・風・火・水・地輪などの部分が太田共同墓地・祖泉共同墓地・光円寺・万遊寺・光福寺・高岡市西部金屋毘沙門杉跡付近・同市吉住熊野神社などに散見できる。

・板石塔婆(板碑)

板石塔婆(板碑)は多くはないが砺波市秋元法泉寺に鎌倉末期から南北朝期の造像と思われるものがある。昭和三十五年十一月に同地区を流れる堂川改修工事の際に発見されたものである。安山岩の割石を用いたもので、塔身面ほぼいっぱいにふくらみのある月輪を刻み、その中に雄渾な梵字「バン」(金剛界大日)を薬研彫している。法泉寺の隣に速恩寺があり、この寺は俗に「ジトボの御坊」と称され、『三州地理志稿』に、秋元村の小地名「地頭坊」を誌しているが、中世の下地中分を示す「地頭方」に遺名であり、この板石塔婆(板碑)もこの地域に関わりを持つものなのであろう。

 旧般若野荘を貫流していたのが、この堂川である。この堂川沿いに西部金屋談義所や崇福寺、などやジトボと俗称される速恩寺、またこの川から発見された板石塔婆など中世石造物、堂川は古い宗教的なイメージが流れている。この川は中世にあっては現庄川筋をこえて西に流れ、市内太田の南で北に偏して流下したといわれている。「正徳二年社号帳」によると谷内川・堂川淵の堂宮の分布は、大日や観音、地蔵、毘沙門の仏教系の堂宮が目に付き、五社や火宮の石動山系や八幡などがある。石動山信仰における真言宗系の修験の影響によるものであろう。法泉寺の板石塔婆(板碑)にも梵字バン(金剛界大日)が刻まれ、これも真言系なのである。

・石仏 地蔵半跏像と如来系仏

 現在光證寺にはニ体の古様な地蔵半跏像が本堂に安置されてある。石材は俗にいう氷見市薮田から採掘された薮田石の、緻密な白乳色のシルト岩質泥岩と、高岡市太田から採掘さる岩崎石である。顔面は削られ、宝珠も無い。光背の右半分が欠落し錫杖の頭部も無い。意識的に破壊されたのであろう。 このような石材で像容の地蔵半跏像は、中筋往来では砺波市祖泉神社前、砺波市下中条比賣神社などにあり、能登半島全域や砺波平野、富山県東部にも広く分布している。このような像容の地蔵は砺波地方の神社などに十二体、氷見地方に三十三体、能登半島に十九体、加賀地方には鶴来町周辺に数体の確認をし、立山周辺にも見うけられる。これらの地蔵は白山信仰やそれから派生した石動山信仰を運んだ、修験者によるものだと思われる。

 ほとんどの地蔵は顔面が削られ、錫杖、宝珠が欠落しており、人為的に積極的に破壊されたものと思われる。石川県志雄町で聞いた「頭が削られているのは、魂を抜かれているためだ」と説明されたことが気にかかるのである。これは、シルクロードのバーミヤン渓谷に大磨崖仏が、異教徒によって破壊されているイメージと似ていると思われるのである。

 中世石造物の五輪塔とともに多く散見できるのが、如来系仏である。これは墓である土饅頭の上にのせられた墓標の意味合いが強く、阿弥陀如来を刻んだものと思われる。この地方に流布する蓮如の広めた浄土真宗以前の浄土系の遺品なのであろうと思われる。

三十三ヶ所観音と観音石仏

 砺波市庄川町青島から中野を経て、太田までの約六キロメートルの間に多くの石仏が造立されている。特に注目されるのが西国三十三ヶ所霊場の本尊を模した石仏が安置されていることであろう。この三十三ヶ所観音石仏の建立を主唱したのが、砺波市中野立山酒造前にあった永昌庵二代庵主大真鉄猶尼(安政六年七月没)である。鉄猶尼は、当時名尼として知られる城端町のある庵主であった。それを中野村の曹洞宗檀家の方々が懇願して、永昌庵の庵主として招かれたのである。鉄猶尼は、着任早々に西国三十三ヶ所観音石仏の造像を発願された。自ら西国三十三ヶ所霊場を巡礼し、各霊場の土を若干採土されて、その土を三十三ヶ所観音石仏にちなんで、埋められたのである。 この観音には庄川の水難防止、交通安全、悪疫のないようにと願いがこめられている。

 鉄猶尼が自ら庄川町青島の一番の観音を造立している。旧永昌庵跡の観音堂内には第二十七番如意輪観音が安置され、銘文には「嘉永七年寅八月 西国二十七番 播磨書写寺」とある。大振りで在銘では最も古いものである。新しいものでは八番十一面観音、九番不空羂策観音の昭和五十七年建立のものである。今も花が手向けられ、石仏への信仰が活き活きと息づいている。

 観音といえば、砺波市秋元の十一面観音石仏も近在でも知られている。大きさが高さ二百四十四センチ、幅が百十七センチのこの地方では大きい石仏である。銘文には「明治十八年九月建之 願主當所若連中 石工森川栄次郎」とある。お参りをすると子供が授かるとされ、「子宝観音」と呼ばれている。石工が一生の間に一千体彫ったとされる明治の名工で庄川町金屋の森川栄次郎である。またこの石仏の建立者が「若連中」であることにも注目した。今で云う青年団体で建立されたことが意義深い。この時代は、庶民の暮らしの楽しみである獅子舞や盆踊りのチョンガリなど民俗芸能等々も盛んになる。また草相撲・米俵や大きい石を持ち上げるバンモチなども行なわれ、真宗寺院では若衆報恩講が活発に開催されている。地域の若者によって建てられた石仏は、地域で長く大事に維持管理され、若者や子供たちによって祭りもされてきた。

南無太子石仏

上半身裸で、腰に赤い袴姿の「タイッシサマ(太子様)」と愛着と親しみをこめて呼ばれる南無太子石仏が砺波地方に多く造立されている。「ゾーサマ(地蔵様)」とはあきらかに区別されている。この石仏は井波別院瑞泉寺の太子堂に安置される南無太子仏に関わりがあり、富山県西部に集中的に造立されている。明治二十年後半から大正前期に流行り神のように、二百二十余体の造像が成されている。それは神社や村の中心部に建立され、お堂もとりわけ立派である。祭りには民俗宗教に薄い真宗大谷派の僧侶のよって執り行われる。これは明治十二年に焼失した瑞泉寺太子堂の再建に向けた情熱の表れなのである。瑞泉寺太子堂が焼失し、再建されたのが三十九年後の大正七年である。わずか約30年間に実にたくさんの太子像が造立された。太子信仰が脈々と生きづいているのである。この南無太子石仏は、この中筋往来の路傍にとりわけ豪華なお堂には太子南無仏な安置されている。中野地区に三体、太田土水門と俗称される四つ角、久泉旧農協倉庫横、祖泉神社前、高岡市西部金屋神社前、吉住、石代、大清水等々にある。

 ところで、木造の南無太子仏が、高岡市春日にある。高さ四十六センチ、幅十五センチの丸彫りで綺麗に彩色されており、春日神社前近くの地蔵堂の中に安置されている。ここには三体の地蔵も一緒に入っている。太子南無仏の入るお堂は、国指定文化財である福野高校の巖浄閣を作った宮大工藤井助之丞の手によるものである。また木造南無太子仏はその台座に「高岡市通り町 大仏師北本吉蔵作」とある。同様な南無太子仏は太田専念寺太子堂に安置されている。また北海道名寄市西五条南にある清満寺の太子堂にも安置されている。砺波地方の太子信仰が北海道にまで波及しているのである。

不動明王

 中筋往来を歩くと、道端や四つ角、辻に不動明王石仏に出会うことがある。上中野の辻には大振りの露座の不動明王石仏がある。両脇に制叱迦童子と矜羯羅童子を立たせ、ぎょろりとした大きい目、やや笑みを浮かべ、仏像に対し失礼ではあるが愛嬌のあるお姿である。不動明王といえば憤怒の形相で怖い仏像であるが、これらは明治の名工森川栄次郎作の特徴でもある。ほとんどが明治期に入り造立され、上市大岩日石寺の不動明王信仰の流布によるものである。中野旧永昌庵、太田などに見えけられる。

珍しい石仏と石碑

 珍しい石仏としては、中野昌寿寺前に来迎仏虚空蔵菩薩、旧永昌庵観音堂の中に飯綱権現、前庭に稲束を担う僧侶姿の稲荷大明神、庄南小学校近くに庚申の青面金剛、この像は高岡市二塚玉川庵にもある。西二塚瑞光寺には八角石幢があり、聖、千手、馬頭、十一面、如意輪、准提の六観音と不動明王と十一面観音の八体の石仏を祀っている。このような石幢は県下でも珍しいものである。

高岡駅南に真言総持寺がある、地元では俗に「観音寺」と呼ばれている。本堂正面に三八体の石仏が並列している。石碑には「一国札所」と刻まれてあり六十六部納経所に関わりを示している。六十六部とは全国六十六カ国を遍歴し、一国一ヶ所の霊場に法華経を一部ずつ納める修行者をいう。廻国聖、六十六部聖、縮めて六部ともいわれている。ここには三八カ国の石仏が並んでいる。ちなみに能登は寺社が石動山、本地仏が虚空蔵菩薩。信濃、善光寺、阿弥陀如来。越中が立山、阿弥陀如来というような具合である。

 石碑はこの往来に「南無阿弥陀仏」と彫られた名号塔が多く見受けられるが、ほとんど幕末から明治期に隆盛を極めた草相撲関係の石碑である。また「近代書道の父」といわれる日下部鳴鶴の書を彫った石碑が三基確認できる。永昌庵跡、太田金比羅社、柳瀬佐藤助九郎邸前である。書を学ぶものにとって必見の碑である。

 この往来は多くの人々が歩いた道であり、道しるべの石仏も多い。中野には四体あるが、すべてが地蔵で井波と高岡への道案内である。太田四つ角には阿弥陀如来石仏の光背に「上井波 下高岡 東ふなば 西でまち」と彫られている。高岡市西広上には地蔵に「東中田 下大門 上井波 西高岡」とある。

旧千保川左岸(太子伝道)の石仏

中筋往来が旧千保川右岸の旧道ならば『加越能三州地理志稿』の「戸出道」が左岸にあたり、その道は次のように記している。

高岡―鴨島―千保川―佐野村―北蔵新村―十二町島村―郡界―市野瀬村―戸出村―石丸村―町村―矢木村―大門村―西新明村―古上野村―高儀新村―井波

この街道筋は、中筋往来と同じく微高地で古くから開けたところである。石丸村や町村の近くには古代遺跡の宮村、千代、油田大坪各遺跡があり、中世遺跡として中村イシナダ、堀内各遺跡が報告されている。この地域は左には新又口用水が流れ、細長い地帯で、中世には「油田条」といわれ、弘安元年(一二七八)平賀氏相伝の知行地であった文書が残されている。

この道は高岡や戸出に至る重要な街道で、人馬の往来も多かった。特に七月二十二日から行なわれる井波別院瑞泉寺の太子伝会の期間中は参拝者の通行が多く「太子伝道」といわれている。街道脇にある西新明海聚寺住職によると、戦前は朝暗いうちから多くの参拝者の歩く音がうるさく、怖いくらいで眠れなかったといわれるくらいであった。この往来では石造物では中世石造物の五輪塔の残欠も各墓地で散見することができ、近世の石仏も多く見られる。

古上野の石仏

砺波市庄川町古上野には俗に「古上野どんど」と呼ばれるところがある。庄川左岸幹線水路が中野発電所を経て流れた水が、用水の落差で水が落ちる音がドンドドンドと響かせるのを表現したものである。鷹栖口用水など五水路に分水される施設である。ここは小公園になっているが小堂の中に二体の地蔵が安置されている。一体は浮彫りの合掌する坐像であるが、もう一体は丸彫りの左足を立て、左手を頬に添え右手に宝珠を持つお姿である。一見如意輪観音のような雰囲気を醸している珍しいものである。古上野公民館前に不動明王坐像があるが、この地方に多い名工森川栄次郎作ではなく、それ以前の井波石工作のものようのう思われる。

中野・庄下の石仏

砺波市中野の小字大開の辻には、宮島要助と砺波山庄兵衛の、明治期の草相撲力士碑と名号塔三基が堂内に入っている。ここから北に進むと西新明の曹洞宗海聚寺があった。跡地には合掌する丸彫りの六地蔵が堂の中に入り、横には「二番」と彫られた聖観音が一体ある。ここからさらに北に進むと庄下地区の大門に入り、真宗大谷派正行寺がありその北側に大きく長いお堂があり、十五体に石仏が集められている。昭和三十八年から始まった圃場整備事業により、田んぼ道などに佇んでいた石仏たちが集合させられたのである。地蔵が十一体,南無太子像一体、不動明王一体、如意輪観音一体、馬頭観音一体であり、南無太子像の目にはガラスが嵌め込めている。また如意輪観音は流麗で彩色が残り銘文に「明治四未年三月二十二日亡 儀山全考居士 明治十八年十一月中旬大門村松田宗八 筆子連中建立」とあり寺子屋の先生のために生徒等が建立したものである。砺波地方では馬頭観音の造立は珍しく、この道を利用した牛馬の供養のために造立されたものであり、不動明王は森川栄次郎作である。このほか同じく宮村真宗大谷派景完経寺のも地区内にあったものが集められ、八体の地蔵が並べられている。

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