戦没碑の語りかけるもの

                                       尾田武雄

はじめに

私は戦後生まれの、いわゆる戦争を知らない団塊世代である。それがもう還暦を過ぎ地域で住んでいる地域では古老(?)とされ、子供つまり私たちの孫に当たる世代の語り部に駆り出されるようになってきた。身近にある寺や社、それに石仏や石碑について語る場合が多い。そんな時、地域内に多い石碑は、子供や孫世代に地域の歴史遺産として重要なポイントとなる。

数年前、平成の市町村合併前の富山県南砺市の旧福光町の石碑調査に関わった成果は。地元の生涯学習団体あけぼの会の面々が平成十五年十一月に『福光町の石碑』として上梓された。平成九年からの調査であるので、足かけ六年の歳月をかけて、所在地、大きさ、碑文の解読、由来など綿密に記載されている。調査員のメンバーは地域の小学校の先生として石碑の説明などに出向かれた。また小中学生向けにと「福光町の石碑―その物語―」が発刊され、郷土の再発見の資料として提供されている。

旧福光町の石碑四百四十八基の内、戦没碑が百四十二基あり(表1)、内訳は(表2)のとおりである。

砺波地方には石仏が多く造立され、砺波市千三百五十七体、南砺市千四百四十体があり、その多くは江戸時代末から明治期にかけての造像である。いわゆる戦没碑も石仏を野に置くような意識がそうさせたのであろう。

日清・日露戦争の戦没碑

 日清戦争は明治二十七年七月から二十八年三月にかけて、主に朝鮮半島をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。砺波地方では日清戦争に関わる石碑は、道端や神社の境内に若干見受けられ、当地区からの従軍者は見受けられるが戦没碑は十一基である。「征清」や「忠勲」など勇ましい碑文が目に入る。また「南無阿弥陀仏 明治廿八年八月立之 世話人若連中」(南砺市人母)のように、地元の若い衆のよる建立がされたのであろう。また「南無阿弥陀仏」と彫られた戦没碑も多い。

 日露戦争は明治三十七年二月から翌年三十八年九月に大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島と満州南部に繰り広げられた戦争である。アメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約により講和した。この戦争に関わる戦没碑が、旧福光町だけで五十五基がありもっとも多い。そのうち年次在銘石碑が三十九基あり明治三十七年建立が四基、明治三十八年が二基、明治三十九年が八基、明治四十年が五基、明治四十一年が二基、明治四十二年が六基、明治四十三年が一基、明治四十四年が九基、明治四十五年が二基である。碑文を拾ってみる。

(日露戦争戦没碑 南砺市一日市)

  • 「南無阿弥陀仏 明治丗七年十月廿三日於清国盛京省二龍山戦死」
  • 「南無阿弥陀仏 明治三十七年八月二十二日戦死 於清国盤龍山」
  • 「南無阿弥陀仏 明治三十七年戦死」
  • 「南無阿弥陀仏 明治三十七八年戦役 清国旅順ニテ戦死」 
  • 「南無阿弥陀仏 明治三十八年三月八日於清国 奉天省大小方土屯附近戦死」
  • 「南無阿弥陀仏 日露役戦死者 明治三十九年十一月建」
  • 「南無阿弥陀仏 明治三十八年三月於清国大小方土屯戦死」
  • 「日露戦役記念碑 明治四十五年」
  • 「日清日露戦捷紀念碑」
  • 「南無阿弥陀仏 明治三十九年五月建之」
  • 「南無阿弥陀仏 明治三十九年五月建之」
  • 「日露戦役 記念碑」(明治三十八年盤龍山にて戦死)
  • 「明治三十七八年戦役記念碑 明治四十二年四月建之」

 明治三十七年に日露戦争が始まり、日本は大国ロシアに勝てる見込みのない戦争であったとされる。当時ロシア帝国は、世界一の陸軍を保有する国であったからとされていたが、日本の満州派遣軍は、鴨緑江から遼陽・沙河の会戦に勇戦奮闘してよく撃破し、奉天まで追撃した。翌年三月十日、奉天会戦で空前の勝利をおさめることになる。郷土部隊の金沢を本拠とする第九師団は乃木希典中将を司令官とした三軍に属し、旅順要塞の攻撃軍に加わった。旅順港を囲む堡塁は堅固無双、難攻不落であった。旅順は四周を山で囲まれ、南方の一部に狭い港口が開いているだけであった。それらの四周の山々はすべて堅固な要塞の連続であった。その要塞築造には二十万樽のセメントを使用し、ぺトンで固め、その上強圧電流を通じた鉄条網を張り巡らしてあった。さらに日本軍の持たない機関銃を多数備え、肉薄攻撃してくる日本軍を、高所より撃ち倒したのであった。三軍は八月十九日から二十一日まで、攻城砲・野砲の全力をあげて攻撃し、その効果を信じて二十一日第一回総攻撃を実施した。しかし死闘四日間にわたり、一万五千人の死傷者を出したにもかかわらず、目的は達せられなかった。その後第二回、第三回の総攻撃が行われ、百五十五日にわたる旅順攻囲線において、日本軍の死傷者は五万九千人の多数にのぼった。(『富山県史通史編Ⅴ近代上』)富山県における戦死者表のように二千四百一人である。その内南砺市の旧福光町ある西砺波郡は三百二十二名であり、下新川郡に次ぐ多さである。(表5)

日露戦争の全国各師団別の戦死者は、第九師団が最も多く、旅順攻囲戦・奉天大戦の犠牲者が多かった。特に盤龍山東旧砲台の攻撃の際に、第三十五連隊の被害は戦死者数三百七十二人,戦傷者数千四十一人と戦闘地の中でも多い。これは肉弾総攻撃の失敗の連続であった。真宗門徒の多いこの地方から多くの若い兵士たちは「戦争をするものも仏に対する報恩行」と、念仏を唱えて肉弾戦を展開し、念仏部隊の異名で呼ばれたといわれている。多大な犠牲を出したのであった。

旧福光町には日露戦争に関する石碑、つまり従軍・戦没などの碑が多いが、その多くは神社の片隅や旧道の四つ角などに散見することができる。堂々たる石碑には旅順攻囲戦での第九師団などを指揮した陸軍大将乃木希典によるものが多々あり、真宗大谷派の御連枝によるものもある。

(兵隊地蔵 南砺市上野)

(道端の慰霊碑)

さて、旧福光町の隣町であった旧福野町の南砺市上野の交差点に「兵隊地蔵」といわれる石像がある。高さ一六五センチの、金屋石の割石に正面に大きく軍人の立像が浮き彫りされている。軍人の像そのものはやや剥落し、朽ちるのを防ぐために針金で補強されている。碑文は正面右に「陸軍歩兵一等卒森田太八君碑」とあり、正面左には「明治卅九丙午三月建之」左側面に「森川栄吉作」、背面には「故陸軍歩兵一等卒森田太八君死清國奉天省官依明治三十七、八年役功勲八等白色桐葉章特賜軍事債券五百円遺族今茲丙午父勒石其不朽属文於予焉君同郷情誼不可辞君越中東砺波郡元上野邨人家□□□□□父太丞母前川氏兄弟五人君其長子年十二年□明治三十七年十一月應第九師団□□召□入營歩兵第三十五連隊同年十二月□征露□命出帆宇品港上陸清國柳樹屯翌年□□□□奉天省附近会戦為勇奮戦闘遂名誉戦死□□□□招魂詞一日也」の語句が読み取れる。

悲しい戦死には変わりはない。農村を犠牲にして戦われた戦争の悲劇の遺産である。この兵隊地蔵には「栄光」と「悲劇」が同時に内蔵されており、その根底には「反戦」の深い意思表示もうかがわれる。

上海事変・日中戦争

昭和六年奉天郊外の柳条溝の鉄道爆破事件を契機に、いわゆる満州事変が勃発した。これに際し中国の民衆の抗日意識が高まり、それを制圧するために郷土部隊である第九師団が投入された。それに関する戦没碑が三基ある。その後中国共産党と国民政府は抗日民族統一戦線を結成し,国民政府は重慶にうつって,徹底抗戦をとなえた。アメリカ・イギリスなどは中国を援助し,戦争は長期化していった。日本は昭和十三年に総動員法制定するなどして,戦時体制を強化したが,戦争は解決のつかないまま泥沼化し,昭和十六年の太平洋戦争へと突入することになる。上海事変三基、日中戦争七基の戦没碑がある。

大東亜戦争

 昭和十六年十二月八日のマレー作戦及び真珠湾攻撃後、同十二月十二日の東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称定義が定められた。団塊の世代は第二次世界大戦と教わった。最近は太平洋戦争やアジア・太平洋戦争などと称されている。我が亡き父はこの戦争に参戦したが、軍人恩給欠格者として特別慰労品を拝受した。次のような賞を頂いた「尾田長二殿 あなたは先の大戦における旧軍人軍属として御労苦に対し衷心より慰労します 平成二年六月二十日 内閣総理大臣海部俊樹」とある。第二次世界大戦を「先の大戦」と呼称している。大東亜戦争とは軍国主義的でなじまないが、戦没碑の碑文にはそのように刻まれているので、ここでは大東亜戦争とする。三十四基とやや多いが、それだけ戦死者数が多かったのであろう。昭和十九年から二十年の戦死者の碑が目立ち、「南無阿弥陀仏」の名号を刻むものが多い。また日清・日露では村の若連中等の建立が主だが、この戦争は村には若者が少なく、家族の建立が目立つ事が特徴的であり、家族の記念碑的な墓石の観がある。(表3)また建立される場所も日清・日露では、神社や村の中心的な辻などに石仏とともにある場合が多く、大東亜では、戦死者の家の近くの路傍に多く見受けられる。

おわりに

 

        

新谷尚紀著『お葬式』で、「『定本 柳田國男全集』の索引をみるかぎり、「慰霊」の語も「追悼」の語もみられない。まだ学問的表現の場では、通常の使用にふさわしい語として位置を得ていなかったようである」とある。死には、正常な死と、異状な死があり石仏を造像する場合、どちらかと云えば異状なしに対し行われ、供養仏として野に置かれる場合が多い。真宗王国の砺波地方は、野の石仏の造像数は全国的にも際立って多く、(表4)のように旧福光町では六百五十五体がある。戦没碑の建立した側の庶民にとっては、戦死した若い村人の死を単なる個人的な出来事ではなく、社会的な存在の死として受入れ、石仏を造像するように戦没碑を建立したのであろう。

 柳田國男著『先祖の話』中の「二つの実際問題」で「「少なくても国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う。もちろん国と府県とには晴の祭場があり、霊の鎮まるべき処は設けてあるが、一方には家々の骨肉相依るの情は無視することはできない」としている。しかし庶民は仏徒や国や府県に関わらず、野に石仏を置くように、戦没碑を建立したのかもしれない。そこには国の論理と違う、肉親のうめき声が聞こえる。

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