上大久保天満宮の立石

                                  平井一雄

一、富山市上大久保天満宮参道の二基の立石について詳述する。

伊藤曙覧著『越中の民俗宗教』によると神社の鳥居の前に、よく大きな立石が見られる。富山県下では呉東地域の全域に分布し、射水・砺波・氷見ではまったく見られない。

神社建築以前の聖域を示すものといわれる。

石仏研究家の西田栄一氏は自然石祭祀の磐座・磐境(いわさか)信仰が鳥居・神社の原型だったのだろうと論考されている。

上大久保天満宮の立石は高さ2・8m、幅1.・8m、厚さ1・3mの安産岩を二つに断ち割り参道入口の左右に立てたもので、後方の2基の鳥居の前に立つのであるから、さしずめ1の鳥居といってもよいと思う。

私が見た周辺神社の立石では一番大きくて立派なものである。二の鳥居は、今は石造八幡鳥居であるが前身の木造両部鳥は明治四十二年に建てられたといわれている。後述の資料により立石建立は明治三十九年頃との記述から木造両部鳥居以前の建立となる。

天満宮の建立は明和二年(1764)といわれるから、もっと小さい立石があったのではないだろうか。

二、天満宮拝殿の奉納額

「大久保天満宮前立石のいわれ」

この巨岩は大沢野町幸町の通称カンゴク山にあったもので約十トンもあります。明治三十九年頃の春に運び出し建立されましたが当時、その作業は困難をきわめました。石には藁で編んだ太い縄を結びつけ、これを乗せる「そり」の代用には二つに割った青竹(モウソウ竹)が用いられました。砂利道の飛騨街道(旧国道)などにこの「そり」をぎっしりと敷き並べては村中の若い衆は勿論、年寄り・女性らが総出で「よいしょ」「よいしょ」と一寸ずりで引っ張って来ました。村人達のその時の格好は、はち巻きにたすきがけ、それに、「わらじばき」といったもので文字通り必死の作業でしたが音頭取りの木遣りも入って実に、にぎやかでした。こうした一大事業は時の総代神保幾次郎(神保一郎氏の先々代)世話人代表清水長太郎氏(清水邦光氏の分家、子孫は岐阜県神岡町に在住)らを中心に進められたもので大石を運び出す当日は未明近くから行われたものの日も西に暮れる頃やっと天満宮前に到着その晩は夜遅くまで祝い酒がふるまわれました。この大岩を現在のような格好に二つに割ったのは当時乱積みの名人といわれた石工で下大久保一区の浦田氏方前に住んでいた藤瀬氏(上大久保丹破島八木氏の娘婿で子孫は長野県に在住)でした。

左右の石を見ればわかるように精魂込めて見事真っ二つに割ったその腕はやはり大したものであったといえます。

立石のいわれは宮総代松本梅吉氏長谷寅治を受けてまとめたものです。上大久保部落にはなんの古文書もなく古老の記憶にたよるしかありませんでした。中でも不肖私の父作次の記憶におうところが多かったことを併せて記しておきます。

昭和五十七年三月  総代 神島文一郎

また平成元年発行『大久保地区上大久保郷土誌』には次の様に書かれている。

「飛騨街道添いの建石」

天満宮参道の入口両側の建石は明治三十九年稲代の監獄山にあったものを街道に青竹を敷き、その上を櫨にのせて上大久保住民総出で引いて来た物で重さ約十トンで石工は当時、上大久保に在住していた藤瀬某であったがこの石について次のような逸話がある。「石工の藤瀬さんが石割用矢を入れて日暮になったのでそのまま帰ったが翌日現場へ行って見るとその石が二つに割れていたので、これは神様の力だといって感謝したという話」しかしこの話の真為の程は定かでない。

『大久保地区上大久保郷土誌』添付の「明治二十六年以後の町並みの変化その一」には、前田久義宅屋敷に大正五年藤瀬石工梅次郎と記されているので、この立石を加工した石工ではないだろうか。

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