「行者 寛明の石塔と寛明書の掛け軸について」   平井 一雄 滝本やすし

1、はじめに

行者「寛明」について『とやま民俗№45』1994.6(平成6年)―村境の習俗・石造物・「行者さま」のこと―と『北陸石仏の会研究紀要第7号』2004.12(平成16年)―富山県東部に点在する行者「寛明」の石碑と名号軸――を報告してから10数年過ぎた。

その間、北陸石仏の会会員酒井靖春氏が平成25年、高岡市中田移田八幡神社の北側にある石碑群の1基に、上から大日如来を顕す梵字があり、その下に弘法大師の灌頂名の『南無遍照金剛』と、大きく刻字されている石塔を確認された。

「向かって左下に、寛明と銘があり、その下に寛明の花押が刻まれている。上記以外の銘はなく、製作年・願主は不明である」という報告をされた。

また平成29年に北陸石仏の会会員滝本やすし氏は黒部市朴谷路傍の「ウーン  大聖不動明王 寛明 花押」石塔を確認され、更に黒部市田籾 観音堂の二十三夜講掛軸「ア・ウーン(寛明自画像)」を報告された。平井は布尻 出町家の寛明掛け軸「アーンク 南無遍照金剛(寛明自画像)」を確認した。

以上の新たに確認した石塔、掛け軸を含めて2章に再録する。

3章に滝本氏から寛明行者の新知見の報告いただいたので掲載する。

4章に今生津のお日待ちに掛けられる寛明書「霜柱氷の梁に雲乃桁 雨のたる木に露のふき草」の道歌は寛明独自の道歌かと思ったがネットで検索したら早川孝太郎『三州横山話』、芥川龍之介『澄江堂雑記』に掲載されていることがわかった。いずれも復刻本を入手したので翻刻して紹介する。

 2、行者「寛明」書の石塔と掛け軸

一、寛明石塔

①旧大沢野町布尻の寛明石塔

大沢野町町長と布尻の境、現在の下タ北部地区公民館前で、お鍬様の神輿の担ぎ手が、これから向かう神社の部落の衆に交替し、行列の先頭を行く、高張提灯と笛、太鼓の衆も前後入れ替わり、これから向かう神社の部落の衆が行列の前に出る。

 「富山県歴史の道調査報告書・飛騨街道その一」にはこの境界の西側に旧道が旧態を保ち残っていることが報告されている。

  「・・・旧道は布尻集落の西、通称“行者さま”の辺、町長との境界になる小さな川を自然石の石橋で渡る。この辺はジョウメンマといわれており旧道の面影がよく残っている。 この“行者さま”は漂泊の修行僧が刻んだとのいわれがあり・・・。ここに二基の石標を立てる石積の立派な基壇があり、その傍に木造の小祠がある。石標は嘉永七年建立の「南無釈迦牟尼仏」と刻むものと明治一四年建立の「南無遍照金剛」と刻むものである。後者は大きく、高さ2メートル10センチある・・・。」   

           明治十四天十月造立       

                町長  布尻  同行中  

  (ユ 弥勒菩薩) 南無遍照金剛   

            寛明(花押) 

       石屋村石工 牧喜右エ門

 「大沢野町誌上卷 町の民俗志 村の一年」の中に八月の行事として八朔・行者祭りの項がある。「八月一日を一般に八朔盆日といい、煎菓子盆ともいう。この日昔からおはぎなど

作って食べた。又大根・そばなど、この日まで何を播いてもよいともいった。一方布尻・町長では「行者さま」で行者祭りをした。この行者は寛明といって、村ではこの人の軸を持っている者が何人かあり、名の知れた僧侶であった。今生津では厄払いのとき寛明の書いた和歌の掛軸を掛けてお祈りしている。  いつも一枚歯を履いて歩いたともいう。

  祭はおひる頃、人々が野菜を集めて菓子を供え、石塚の前で供養をするのである」

  私はこの寛明という行者に興味を覚え、調べようとしたが明治のことなのに石造物以外の資料がない。寛明の銘が入っている石碑は ここの他に大沢野町には二基ある。

②旧大沢野町猪谷の寛明石塔

富山市東猪谷シモムケ集落の南はずれ、旧道と県道が合する三叉路の辻に石造物の集合地がある。ここに中に弘法大師座像を浮き彫りにし、上に梵字アを刻み、右に南無阿弥陀仏、左に南無遍照金剛を刻む高さ一六○センチの石碑がある。

  なおここは東猪谷集落の下はずれにあたり道切りの「シメ(しめなわ)」を春秋の祭りのときに張り替える所でもある。

                  明治十五年初夏造立   

     南無阿弥陀仏   寛明(花押)    

  (ア 胎蔵界大日如来)  弘法大師座像

     南無遍照金剛 

東猪谷村    発起人 谷上十兵エ   母

石屋村 石工 牧喜右エ門

③旧大沢野町舟倉(寺家)の寛明石塔

       (右側面)   明治十二年八月十四日   

  (ユ 弥勒菩薩)南無遍照金剛       

                       寛明(花押)    

(裏面)            上滝石工 与助   

右、左側面に数十人の個人名が刻まれている。

帝龍寺(由来縁起)

  船峅山  帝龍寺在舟倉村真言宗なり

   貞亨二年の由来書に

「大宝二年文武天皇之建立、本尊嵯峨虚空蔵菩薩同御宇真福上人之草創、往古七堂伽藍

寺家三百六十坊在之、然処応永年中当山及放火、其頃諸坊悉、退転、縁起記録等消失、僅本坊相残云々」(越中志徴)

 [藩政期を通じ明治初期以前の船峅郷(船峅寺郷)十六村は現在の舟倉、小黒地区のほか、福沢地区の小佐波、瀬戸、石淵、下双嶺、折谷、大清水、下タ地区の薄波、寺津、町長、布尻、今生津、芦生、牛ケ増、大沢野地区の笹津が含まれ、万願寺地域その他の福沢、下タ、大沢野地域は太田庄百二ケ村含まれて、船峅地区はその中心だったことは郷名からもわかるが、飛騨に対する要害であり、富山、加賀藩の境界でもあったので、同地区は全部加賀藩領であった。](帝龍寺とその周辺の文化)重杉俊雄

  この石碑に刻まれた名前はこの船峅郷全域にわたっているようである。

 以上、大沢野町に計三基の寛明碑があった。

④朝日町境 護国寺境内の寛明石塔

 (右側面) 明治十五年八月吉日   

  前面                                

   (梵字 ユ)南無大師遍照金剛  

             行者 寛明(花押)

  平成五年九月九日、富山県読書会連合協議会の研修旅行で朝日町境の護国寺を訪ねた。どしゃ降りの雨の中、本堂に至る参詣路の石造物を見て歩く。

  行者寛明と見慣れた花押が刻まれた石塔が目に入った。同名の行者かも知れないとも思ったが梵字のユ(弥勒菩薩)と南無大師遍照金剛の宝号、右側面には明治十五年の年号が入っている。寺は真言宗でありほぼ間違いがないだろうと思ったが確証がない。どんな経路で船峅郷から越中と越後の国境、境へ移動したのだろうか。

護国寺の奥さんから「この石塔は前はこの寺より前方の北陸街道に面した道路脇(祖閑庵近く)にあったものを移設したのだ」と聞いた。

 新たな謎が生まれた。造立した年号は明治十五年であり大沢野町の三基より後のものであるが字体が稚拙である。大沢野町布尻と猪谷の石碑は石屋村 牧喜右エ門という名門の石工三代目の作である。土蔵第六号(富山県内の石工について若干の考察 尾田武雄)

  布尻と猪谷の石碑は一所不住という漂泊の旅僧の勧進にしては立派すぎる。

 東猪谷の寛明碑には真言宗の宝号と弘法大師像とともに弥陀の名号も刻んである。東猪谷浄土宗 宝樹寺の檀家をも縄張りに入れていたのだろう。

  

 ⑤富山市月岡 圓城院の寛明石塔

 

(右側面)  明治十三年四月建立

 (梵字 ユ)南無遍照金剛  

              寛明休歸(花押)

 月岡山 圓城院 富山市月岡5丁目

圓城院は元、立山寺の寺中で、座主坊にあったが、真言宗に改め、龍高寺の塔中になった。上杉勢の兵火にかかった後、花崎(大山町)野口氏十一代伝名が、北条氏代々の霊を弔う為、月岡野に移して、山林田畑を永代寄進した。

参考文献 中村太一路著『富南の歴史』昭和三十八年発行

この石塔を教えて下さったのは龍高寺住職の古川氏であった。布尻・町長の行者さま祭に参加していて、寛明のことを調べていると話したら私の寺(龍高寺)の塔中である円城院にも寛明石碑があると教えて下さったのである。

⑥魚津市小川寺心蓮坊の寛明石塔 

⑥-1 アーンク 大聖不動明王   寛明(花押)

       明治十三年三月建築焉

  (右側面)京都泉涌寺住職 開眼大教正佐伯旭雅殿

      台座  釈迦堂新邑講中

 ⑥-2  ア 心佛願を運ぶ 我■■■つ■ ふかく■きよ

                 行者寛明 花押

明治十三年三月建立

⑦魚津市  片貝川東山橋詰の寛明石塔

・アーンク 南無遍照金剛    寛明(花押)

        明治十三年八月

     台座 施主 深山三郎兵衛

片貝川の水神と万堂小祠

片貝川の右岸・左岸集落には「万堂」といわれる伊勢神宮の大麻を祀った小祠堂が見られる。水難除けを祈願し川神・水神を祀ったものだと言われている。

この寛明石塔も片貝川の水難者を供養する目的と水神・橋神を祀ったものと考えている。

⑧高岡市中田移田八幡神社隣接地の寛明石塔

・アーンク 南無遍照金剛  寛明 (花押)

⑨黒部市朴谷 路傍 

・ウーン  大聖不動明王 寛明行者 花押

二、掛け軸

⑩神岡町中山 浄土宗東林寺 

・南無大師遍照金剛  (寛明自画像)  

 南無阿弥陀仏     中山講組

⑪大沢野町町長 

1 ・アーンク 南無遍照金剛 町長村講中 

2 ・ア バン    寛明

⑫大沢野町今生津

 ・バン 霜柱氷の梁に雲乃桁 雨のたる木に露のふき草

                村講中組

『目で見る下タ北部』平成七年発行には、この今生津地区のお日待ち掛け軸の裏書が載せられている。

  密宗沙門  一処不住  越國寛明

この記述により寛明は越中の真言密教の僧であり、民衆救済の説法僧・祈祷僧として下タ地区一体を歩いていたことがわかるのである。

⑬大沢野町 布尻 谷井和宅

・ユ 南無遍照金剛 寛明

⑭大沢野町 布尻 出町家  

・アーンク 南無遍照金剛(寛明自画像)

                行者寛明(花押)

⑮大沢野町 八木山 無縁寺

 ・アーンク 南無遍照金剛  (寛明自画像・花押)

       南無阿弥陀仏 村講中

⑯黒部市田籾観音堂 

・ア ウーン (寛明自画像)講中

             寛明(印)

3、寛明行者について  滝本やすし

寛明行者の書が刻まれた石塔は、平井一雄氏らによって富山県内で10基が確認されている。そのうちの5基が、高野山真言宗寺院の境内に建てられている。しかしそのうちの3基は他所から移されたことが確認される。高岡市中田の移田八幡宮に隣接する鎮魂の杜に建てられている寛明書の石塔は、照光寺近辺から移されたのであろうか。昭和44年には現状だったそうであるが、照光寺は現在無住となっており、詳細を確認できない。この石塔を除く9基に明治12~15年の造立銘が刻まれていることから、この頃に行脚した真言の僧であると考えられているが、詳細は不明である。また寛明書の掛軸は、平井一雄氏らによって富山県内で8幅と富山県境に近い岐阜県飛騨市で1幅が確認されている。寛明書の石塔や掛軸には「南無遍照金剛」や「大聖不動明王」と書かれたものがいくつかみられる。特に「南無遍照金剛」の上に「ユ」の種子を冠したものが目に付く。

石塔や掛軸の分布をみると、飛騨街道および布施郷に集中している。寛明がこれらの地域で集中的に布教活動を行ったことが考えられる。富山市舟倉の高野山真言宗帝龍寺や魚津市小川寺の高野山真言宗心蓮坊を活動の拠点としていたのであろうか。

 心蓮坊の境内に寛明書の石塔が2基並んでいる。右の石塔は、正面に大きく「アーンク・大聖不動明王」、その右に「明治十三年三月建築焉」、左に「寛明(花押)」と刻まれている。裏面に発起人と世話人の名が、右側面には「京都泉涌寺住職/開眼大教正佐伯旭雅殿」と刻まれている。また台石正面に「釈迦堂新邑講中」と刻まれている。左の石塔には道歌が刻まれているが、2基は同講中によって同時に建てられたものである。これら2基の石塔とその手前に建てられている1対の灯籠は、魚津市釈迦堂(旧釈迦堂新村)の路傍に建てられていたもので、昭和30年頃に行われた道路拡張の際に心蓮坊の境内へと移されたそうである。

「アーンク・大聖不動明王」と刻まれた石塔は、明治13年3月に京都市東山区泉涌寺山内町の真言宗泉涌寺派総本山泉涌寺第143代長老の佐伯旭雅によって開眼されたことが記されている。泉涌寺は、他の真言宗宗派と共に明治12年から東寺の管下に置かれていたが、明治40年に泉涌寺派総本山として独立している。心蓮坊境内に建てられている石塔は、ちょうど東寺の管下に置かれていた時期である。ところで、明治41年から泉涌寺第146代長老を務めた泉智等(号は物外)は、明治12年から明治26年まで布教活動のため全国を巡錫している。佐伯旭雅によって開眼された石塔は、智等が造立に関与していたことが考えられる。そうすると、智等と寛明との関係が気にかかる。

 心蓮坊境内に「アーンク・大聖不動明王」、黒部市朴谷の路傍に「ウーン・大聖不動明王」と刻まれた石塔が建てられている。心蓮坊には、本尊である弥勒菩薩、阿弥陀如来、釈迦如来の右手に厨子があり、不動明王が納められている。この不動明王には本尊を凌ぐほどの厚い信仰がみられることから、これらの石塔が建てられたのであろう。それぞれ、釈迦堂新村(現魚津市釈迦堂)と朴谷村(現黒部市朴谷)の講中によって造立されている。心蓮坊の檀家である釈迦堂村(現黒部市釈迦堂)の大島家と森内家が現在地へ移住して当地を釈迦堂新村とした。現在では、大島家と森内家が十数軒となっている。朴谷の石塔の台石に刻まれている清五郎は、心蓮坊檀家の谷島家である。朴谷の谷島家は現在十軒ほどである。

寛明の書には「南無遍照金剛」と書かれたものが多くみられる。これは、寛明が古儀真言宗ではなく新義真言宗を学んだことによるのであろうか。弘法大師が創建した高野山では「南無大師遍照金剛」を宝号としているが、京都の古儀真言宗寺院では主に「南無遍照金剛」としていた。寛明は「大師」の文字を用いない「南無遍照金剛」を多用していたことから、京都で修行したのではないかと考えられる。であれば、智等と何らかの関わりがあったのであろう。なお現在では、京都の古儀真言宗でも「南無大師遍照金剛」とするのが一般的である。朝日町境の護国寺境内の1基のみに「大師」の文字が書かれており、書体も他と大きく異なっている。何か特別な事情があったのだろうか。

 寛明の書には「南無遍照金剛」の上に「ユ」の種子を冠しているものがいくつもみられる。「遍照金剛」は一般的には大日如来とされるが、「ユ」は弘法大師の種子である。弥勒菩薩は56億7000万年後に如来となり、その際に弘法大師は如来になった弥勒と共に下生して衆生を救いに現れるという。このことから、弘法大師は弥勒菩薩と同じ「ユ」の種子が用いられる。

 心蓮坊に保管されている『明治二十二年以降 臨時過去帳』の明治41年の部分の欄外に「寛明和尚 一月六日滅」と記述されている。心蓮坊から遠く離れた場所で亡くなられたので、後で欄外に書き加えられたものと考えられる。石塔の造立が明治12~15年なので、それから26~29年後に入滅されたことになるが、享年が記されていないので出生については不明である。また明治16年以降富山県内において石塔の造立がみられないことから、遠隔地で布教活動を行っていたことも考えられる。

 余談になるかもしれないが、富山市東猪谷に気にかかる石仏がある。小島荒神とも称される1面4臂の神将形三宝荒神である。弘法大師が唐へ渡った際に感得したとされる荒神で、日本で最初に作られた木像が京都泉涌寺の塔頭である来迎院の荒神堂に祀られている。絵像なども含め極めて作例の少ない荒神像であり、寛明の石塔がある東猪谷に作例がみられることは泉涌寺との関わりがあるのではないかと考えられる。

 残念ながら寛明行者に関する資料は乏しく、何処の僧であったのかを特定するに至らない。しかし、少しずつ解明に近づいているのではないかと感じている。

東猪谷の小島荒神石像 『諸宗増補佛像圖彙』の小島荒神図像   

4、早川孝太郎『三州横山話』・芥川龍之介『澄江堂雑記』翻刻 平井一雄

 ①芥川龍之介 澄江堂雑記  二十六 家

 早川孝太郎氏は「三州横山話」の巻末にまじなひの歌をいくつも揚げてゐる。

 盗賊の用心に唱へる歌、――

「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢の間に何ごとあらば起せ、桁梁」

 火の用心の歌、――「霜柱、氷の梁に雪の桁、雨のたる木に露の葺き草」

いづれも「家」に生命を感じた古へびとの面目を見るやうである。

かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりも後に生れるものは是等の歌を読んだにしろ、何の感銘も受けないかも知れない。或は又鉄筋コンクリイトの借家住まひをするやうになつても、是等の歌は幻のやうに山かげに散在する茅葺屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。

 なほ下手に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男氏の「遠野物語」以来、最も興味のある伝説集であらう。発行所は小石川区茗荷谷町五十二番地郷土研究社、定価は僅かに七十銭である。但し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訣ではない。

 付記 なほ四五十年前の東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。

「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、梁も聴け、明けの六つには起せ大びき」

②三州横山話 早川孝太郎

〇種々な咒ひの歌  

血止めの歌 手近にある木の葉をとつて、噛んで傷口に押へつけて

血ノ道ヤ血ノ道ヤ父ト母トノ メグリアヒ、血ノ道止レ血ノ道ノ神と三度唱へる。

鼬が行手を横切つた時は、三歩後に戻つて、

イタチ道チ道チカ道チガヒ道、ワガユク先ハアラゝギノ道、と三度唱へる。

山犬に遇つた時は

神國二人ヲ怖レヌ畜類ハワガ日ノ本二居ヌハズメモノと三度唱へる。

盜賊の用心に唱へる歌は、就寝前に

ネルゾ寝タタノムゾタル木夢の間に、何事アラバ起セ桁梁と三度唱へる。

火の用心の歌

霜柱氷ノ梁ニ雪ノ桁、雨ノタル木に露の葺草と三度唱へて寢る。

吾が許を通り過ぎに行く人を立寄らする歌と謂って

アマツ風雲ノ通ヒ路フキトジヨ乙女ノ姿シハシトドメン

此種の歌は未だ沢山ある事と思ひますが、記憶にあるのはこれだけです。

蜂にさゝれぬ用心には、

シシヨゴシヨムニシンゝゝゝと?へる

狐に化かされぬ要心には

狐ヲ喰ツタラウマカツタマンダハ(未ダ)奥歯ニハサガツテ居ル

 と言へば狐が怖れて逃げると謂ふ。

蛇に喰いつかれぬ要心には

蛇モマムシモ喰ックナ知立猿投の大明神と唱へると謂ふ。       完

    

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