無智の行者 光導名号塔(団子念仏碑)を訪ねて   

平井 一雄

一、津幡町倉見 浄土宗「専修庵」探訪記

石川県『「歴史の道」調査報告書第五集』の抜刷(加賀・能登における念仏行者の足跡)を著者 芝田 悟さんからいただいた。芝田さんは北陸石仏の会主催 砺波・庄川例会 (平成10年10月25日)に参加されたときに、久世嘉太郎会長さんから紹介された人である。芝田さんは久世会長の提供された義賢行者の資料をもとに加賀・能登の義賢・徳本行者の名号塔、名号軸を精力的に実地調査されこの研究論文を発表された。

義賢・徳本行者の研究については久世さん、芝田さんのほか、富山の伊藤曙覧氏、京田良志氏の長年のご研究成果がある。

私は、居住地大沢野から飛騨に残る徳本、徳住、寛明、祐天名号塔に関心を持ち県内、近県の石仏探訪の際は路傍、墓地、寺域の名号碑も調査対象にいれている。

この抜刷の後半に、「津幡町内の寺院数53寺中49寺が浄土真宗、浄土宗2寺、真言宗1寺、日蓮宗1寺という内訳である。浄土宗寺院の二カ寺は、竹橋の有声寺と倉見の専修庵であるが、後者は慶応元年に光導と名乗る僧によって開創されたものである。・・・」という記事が目にとまった。光導と名乗る僧は、この二三年私が関心をもって追い続けている念仏行者の名であった。

後述するが、光導行者の名号塔は、富山県で2体、石川県で2体実見しており、この専修庵にも名号塔があるかもしれないと思って、探訪の機会を作った。

平成11年5月14日午後、一人で訪ねるつもりで小矢部から倉見をめざしたが、迷って前に北陸石仏の会事務局長 尾田武雄氏と訪ねた津幡町の久世会長宅前に出てしまった。連絡をとらないで来たのでご在宅かどうかわからなかったが中へ入って訊ねると倉見の近くに居られるはずだといわれて運良く電話が通じ、待ち合わせの場所まで行って案内してもらうことができた。鍵がなく寺内は入れなかったが境内の無縫塔、倶利伽羅三十三観音の一番と地蔵菩薩は拝観することができた。写真1-1,1-2

光導名号塔らしきものは見あたらなかったのでちょっとがっかりした。帰り際に寺の入り口にある石塔に気づいた。写真1-3

前面の刻字は剥離し、名号か個人の墓碑名か判別できない状態であったが左側面に明治十四年二月廿二日往生の記銘があったので一応写真を撮っておいた。写真1-4

このことが後述の思いがけない展開のきっかけになった。専修庵の次に竹橋の有声寺を訪ねた。写真1-5,1-6,

ここには義賢・徳本両名号塔が遺存する。また、倶利伽羅三十三観音の三番が祀られており、久世会長さんのお気に入りの寺ということで、庵主田賀澄月尼の歓待をいただいた。お話では、澄月尼は前、金沢覚源寺と此の有声寺を両方兼任していたが覚源寺を後任谷崎隆光師に任かされたとのことである。ところがこの谷崎師は小松市那谷町の三光院住職を兼ねておられるというので驚いた。三光院は光導行者の住しておられた寺である。

注1参照

浄土宗寺院名鑑(平成十年度版)には(石川教区西南組56等級 三光院 小松市那谷町105は石川教区犀川組№018覚源寺へ 僧都 正輔 谷崎隆光)と記されている。

後日、澄月尼から隆光師は光導行者のことは知っておられなかったといわれた。寺号だけを引き継いでおられるらしい。 

二、専修庵 光導顕彰碑

前章の不明石碑の記銘を家に帰ってから光導資料に照らして調べた。五章参照

明治十四年二月廿二日往生の記銘は、(光導は三光院を弟子の光念に譲り明治十四年二月二十一日に三光院で入寂された)という記述に1日違いで一致する。

この石碑は光導行者に関係があると判断し、1週間後の21日尾田武雄氏とともに久世会長に連絡を取り、再び専修庵を訪ねた。石碑を詳しく調べると、ほとんど剥離した前面左下に「 光 □(導) 花押」が残っていて読みとることができた。写真2-1

右側面には明治十六年十一月十日建立と記されている。裏面にはかなりの文字が記されているようだが摩耗がひどく読みとることができない。

後述の宮本賢吾著『光導行者』によると「光導行者の墓は石川県江沼郡那谷村三光院の境内にある。中略 今日でも見るから気の毒な程の荒れ寺である。五十を過ぎた尼さんが此の寺の留守居をしている。だが光導行者の墓石は寺に不似合なほど大きい。後略」とある。この記事の書かれた『旅と伝説』昭和8年9月号から65年の年月過ぎた現在、那谷寺前の三光院は那谷町福祉会館に仏具・仏像を移し、寺の建物は外観は往時をとどめて貼り札が残されているが中は那谷町の祭礼資材置場と化し、那谷寺駐車場の看板にかくれて訪れる人はいない。福祉会館前で山野草・小品盆栽を商っておられる高田紅葉園店主 高田哲夫さんに光導の墓碑を聞いた。墓のあった時代は知らないがお盆には関係者がお参りに来て居られるといわれた。

私は専修院前の石塔が光導の墓ではないかと思ったが、専修庵内に保管されている由書書によると倉見住民有志が光導行者の顕彰碑を建立したとの記述があり、墓碑ではないかもしれない。とすると寺に不似合いなほど大きい墓石はどうなったのだろうと、まだまだ私の光導行者足跡行脚の旅は続くことになる。注3 専修庵縁起  写真2-2,2-3

三、専修庵 光導行者位牌

5月21日久世会長さんのお世話で専修庵の管理をされている方に鍵を開けてもらい寺内に入ることができた。明治の排仏稀釈により倶利伽羅長楽寺より譲り受けたとされる阿弥陀如来が本尊である。位牌が5基あり、「善蓮社法與上人孝道行者大和尚」が光導行者の位牌と思われる。裏面には明治十四巳年二月廿一日と記され前記の光導資料と合致する。光導は孝道となっているが、宮本賢吾著『光導行者』によると「現存の位牌は新に塗り直したものらしいが、その法名は善蓮社法與光道大行者とある。導の字が道の字になっているのは間違ったのであろうが特に注意を要する」と書かれている。専修庵の位牌と三光院の位牌は別のものなのだろう。光道の位牌は三光院(那谷町福祉会館)にあるのか金沢覚源寺にあるのか、墓碑の行方とともにこれからの研究課題である。

大泉寺の光導碑

四、魚津市大泉寺名号塔と無智行者光導

話しはさかのぼるが橋地蔵を調べに魚津市の浄土宗大泉寺を尾田武雄氏とともに訪ねたことがある。

寺の門前に文化十三年の徳本名号塔を見ることができる。境内左手に、見慣れない名号塔2基を見つけた。写真4-1,4-2,4-3

左の丸い書体の南無阿弥陀仏は氷見市小境大栄寺門前にあった名号塔と同じ書体である。左下に記銘がある。(□智光導 花押)と読める。□が読めない。

左側面には明治十一年戊寅五月建立と記されている。

右の名号塔は南無仏と読め、義賢の銘と天保十五辰年の紀年が刻まれている。

問題の□であるが、何人かの識者に写真を見てもらって字を読んでもらったが、無とか寂とかはっきりしなかった。無智光導でも寂智光導でも坊さんらしい名前になる。

ある日、手持ちの復刻版『旅と伝説』総合目次を見ていたら第六年(昭和八年)九月号に(先導行者 宮本謙吾  五九)というのを見つけた。もしやと思い本文を読んでみた。本文の見出しは光導行者となっており、目次の「先導」は誤植であった。興奮状態で本文を読んだのである。この中に(無智の念仏光導行者歌)という記述があり、無智光導という行者の名号塔であるという確信をもったのである。

著者の宮本謙吾氏については、奇しくも私と同じ光導研究をしておられた大聖寺の久保田時央さんの好意で『加賀江沼人物事典』中の宮本謙吾の項目をコピーして送って頂いたので要約して注2に載せる。『光導行者  宮本謙吾』には宮本氏の光導探求の熱意が新鮮に感じられるので最初と最後をそのまま紹介する。

五、光導行者  宮本謙吾 『旅と伝説』  昭和八年九月号(復刻版)

はしがき

 その趣きは多少違つてゐるが、その風格に至っては、恐らく越後の良寛上人にも、勝るとも劣らない一個の僧侶が、一切の文献の上から抹殺されてゐる。それは加賀国大聖寺藩の領内である江沼郡那谷村の三光院という、浄土宗の一貧寺の住侶であった光導といふ念仏行者のことである。石川県史や江沼郡誌やその他の文献には一行もこの光導行者について記してゐないが土地の人は云うに及ばず、光導行者を知つてゐる総ての人は、その徳行と無慾と童心とを讃えない者はゐない。私は大正の末年から、この光導の事蹟について探究を怠らなかった。今、茲に一文を草し読者諸君にその徳行振りお知らせする次第である。

その一生

 光導行者は加賀國江沼郡潮津村宇野川(之は現今の行政区画で、昔は大聖寺藩領内、野田村と云った)の農家の生れである。その出生年代ば享和二、三年頃と推定して間違いはあるまい。それは死亡の明治十四年が七十九才か八十才かであったと言うから、それから逆算しての計算である。青年のころ一時京都に行った事があるが再び郷里に帰り、いよいよ一念発起して十九歳のとき(或は十八歳とも言う)大聖寺の城下松縁寺の徒弟となり出家した。光導行者は学問の人ではない。何処までも念仏の行者てある。而してその修行地は領内荒谷の巖窟であつた。此の巖窟の内には凡そ八九年も居られたらしい。

それから全国を周遊すること四回に及び再ぴ三光院に落ちつかれてからは、江州木の本行きの牛馬を収容する小屋を建てたり、又は国内の各郡にわたって供養の石塔を建てたりその他いろいろの徳行があつた。此の時代が一番光導行者の面目を発揮した時代で後には寺を弟子の光念に譲り明治十四年二月二十一日に三光院で入寂された。現存の位牌は新に塗り直したものらしいがその法名は「善連社法誉光道大行者」どある。導の字が道の字になっているのば間違ったのであらうが特に注意を要する。

その生家  

 野田の生家は血統が伝わっている。現在は山崎姓を名乗り当主は山崎一二三と云う二十六歳の青年である。即ち一二三君の父が三太郎、其先代が茂右衛門、其先代も同じく茂右衛門、其また先代の名は不明だが其の弟が光導である。

出家の動機

 光導行者は子供の時から常人と異ったところがあった。農家だから毎日田畑に出て仕事をするが、我家の田と他家の田との見さかひがなかつた。例へば自分の家の畑を耕しつつ他家の畑まで耕してやる。「いったい他家の畑をどうするのぢや」両親が叱ると「さうですか」と云ってけろりとしてゐるという風であった。もっともこれでは百性は勤まらぬと一時京都に行つてゐたのであるという。但し京都で勉強した形跡は認められない。其の出家の動機は母親の死去にあるらしい。当時.大聖寺の城下に松縁寺といふ浄土宗の寺があって、其の近所の某の世話で同寺に入つて剃髪した。此の世話をした某というのは今は大聖寺町字五軒町にある東川といふ桶屋の先祖である。その縁故で光導行者は在世中よく此の東川氏の家に来た。因みに光導さんの俗名はわからない。

中略

其の墓碑

光導行者の墓は石川県江沼郡那谷村三光院の境内にある。ここに行くのには北陸線の粟津駅で下車、温泉電軌会社の電車に乗替へて那谷駅で下車、それから約一町ほどで三光院に達する。今日でも見るから気の毒なほどの荒れ寺である。五十を過ぎた尼さんが此の寺の留守居をしてゐる。だが光導行者の墓石は寺に不似合なほど大きい。今日では特志の者でない限り参詣する人もないらしい。加賀の四温泉と云へば天下に有名である。シシで名高い山中温泉、松茸で名高い山代温泉、それから粟原、粟津の二温泉を加へて四温泉といはれてゐる。その何れかに遊んだ人は必づ一度は那谷寺(ナタと読む)の観音さんに遊ばない人は少ない。

此寺は真言宗の寺院であるが庭園がとても立派で北歴の名園として天下に著聞してゐる。此の真言宗那谷寺の門前に貧しい三光院があるのは何という皮肉であらう。了

六、江沼郡郷土読本 第七 光導さん  昭和十三年発行

次に久保田さんから提供された(『江沼郡郷土読本』昭和十三年発行)より光導行者の行状を引用する。

第七 光導さん

それは或寒い年の暮であつた。みぞれの隆る中を、光導さんは那谷の三光院から、いつものやうに大聖寺の信者の家へ廻つて来られた。見ると、光導さんの赤くかじけた足には、わらぢのあとが痛々しくついてゐる。それを見かねた主入は、早速奥から新しい足袋を一足持つて来てあげた。ところが帰り道に一人の乞食がゐたので、すぐにそれをぬいでやつてしまはれた。光導さんには、こんな事は珍しくなかつた。橋立の或家て綿入れをあげたが、次に来られた時には、又袷を着て寒そうにして居られたこともある。しかし、物を大切にせられることはたいへんなもので、道を歩いていてなつ葉が落ちてゐても、勿体ないといつてすぐ拾っていかれた。或年近江の國へ巡つて行かれた時、木之本で牛鳥がたくさん殺されてゐるのを見て、実にかはいさうに思ひ、那谷へ帰ってから、木之本行の牛馬は三光院で養ふからといつて、四間に七間の馬小屋をたて、これを養ひ、その費用は村々を廻つて寄附を集められた。牛馬が天命を終えて死ぬと、瀧ケ原の山中に埋めて、これを葬られた。或年たいへん荒い馬で、飼主にさへ数回かみついて、人々が人喰馬といつた厄介な馬が来た。誰が行つてもしまつのつかない此の馬が、光導さんの手にかかると、たいへんおとなしく、普通の馬と少しも違はないので、人々は不思議に思つた。又或時、光導さんが橋を渡らうとして、あやまつて川に落ちた事がある。折よく百姓が見つけて、大声で人々を呼び集め、駆けつけて見ると、泳ぎも知らない光導さんが、水面に顔だけ出して、念仏を称えながらも流れている。ようやく人々に引き上げられた光導さんは、ただ念仏を称えながら、さっさと歩いていってしまわれた。

   称ふればここにいながら極楽の   

    蓮華のうちにねたりおきたり

   死ぬるとは夢にも更に思ふなよ

    往きて生るる浄土なりけり    

大栄寺の光導碑

七、氷見市小境 大栄寺の光導名号塔

私が初めて光導名号塔を見たのは昭和55年である。職場旅行で小境の民宿に泊まった時があった。朝早く起きて大栄寺を散歩して写真を撮っていた。地蔵や五輪塔群の中に丸い絵模様のような字を刻んだ石碑があった。その頃は石仏に興味を持ち始めたばかりの頃で梵字の知識もないのに梵字だろう、いつか読めるようになりたいものだとぐらいに思って写真に撮っておいたのである。次に同じ書体の魚津市大泉寺や七尾市宝憧寺の光導名号塔を見つけた。徳本、義賢、祐天など浄土僧に共通する独特の書体を勉強するうち、この丸い書体が南無阿弥陀仏の六字名号をデフォルメしたものだと気づいた。

尾田武雄氏も大栄寺の名号塔を撮っておられたので写真を提供していただいた。

ところが大栄寺でここ3年前ほどに境内改修の際、この名号塔を破却し埋立ててしまったとの報を尾田氏より聞いた。今年1月大沢野読書会新年会で氷見市阿尾へ行ったとき大栄寺へ廻り確認した。五輪板碑は残っていたが光導名号塔と今石灯籠のあるところにあったはずの六字名号塔はどこをさがしても無いのにがっかりした。写真7-1,7-2、7-3

尾田氏によると光導名号軸を保管している人が氷見市におられるという。いつか見たいものだと思っている。『富山の民俗』 小境特集参照

宝幢寺の光導碑

八、七尾市小島町 宝憧寺の光導名号塔

平成7年北陸石仏の会、七尾例会で七尾市小島町宝憧寺を廻った。雨がかなりひどく写真がうまく撮れなかったが光導の書体の名号塔を確認した。

『新七尾風土記』田中正行著 平成9年発行によると無量山宝憧寺 草創は古く泰澄の開基。石動山中の真言宗寺院だったが府中へ移転し浄土宗に改宗、能登畠山氏滅亡史上重要な舞台となった。当小島に寺地を移し、元禄十年代に再建された。境内地蔵堂には「歯直し地蔵」を安置する。地蔵の左隣りには市内で珍しい「団子念仏」碑がある。と書かれている。この団子念仏碑が光導名号塔である。云われてみれば丸い書体は団子が縦に5個並んだように見える。市内では珍しいと云うと他市町村にまだ存在するということだろう。写真は七尾へ単身赴任している会社の同期西平卓司氏に写真を撮ってもらった。記銘の確認に再度行って見たいと思っている。

加賀市百々町の光導碑

九、加賀市百々町 県道142号線沿いの光導名号塔

金沢の石仏仲間 滝本靖士さんから情報を得た。光導名号塔かもしれない名号塔を見たことがあるという。平成11年5月7日小松市那谷寺・大聖寺例会で滝本氏から写真を提供してもらい二基のうち一基は光導名号塔であることがわかった。

バスの時間をやりくりしてもらって現地へ廻ってもらった。写真9-1,9-2,9-3

碑の上部は破損亡失しているがまさしく光導名号塔であり、有志で銘文の解読を試みた。右

西生院殿□□□為菩提立□

南無阿弥陀仏

□□午従三月 那谷三光院光導 花押

と読める。□□午は明治三年庚午と考えられる。次の壬午は明治一五年にあたり光導は生存していない。光導の足跡がまた一つ見えてきた。

那谷寺の光導碑

十、おわりに

三光院無智行者光導の名号塔を4基見ただけだが、長い長い行脚をしてきたように感じる。徳本・義賢・祐天は先輩諸氏の研究に道しるべを与えられてスムーズに進んできたように感じたが光導については不思議に運と石仏仲間の情報交換に恵まれて団子念仏碑に光を当てることができたように思う。まだまだ光導名号塔の分布調査・光導行者足跡探訪の行脚を続けて行きたいと思っている。

注1 加能郷土辞彙 日置 謙より

注2 『加賀江沼人物事典』より

注3 専修庵縁起

名号「光導・花押」江沼郡郷土読本より

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