大沢野町猪谷の半僧様(はんぞさま) 

                          平井一雄 

旧大沢野町猪谷(細入村猪谷と区別するため通称東猪谷とい

う)は飛騨(岐阜県神岡町)との国境いで加賀百万石の関所の

あった村である。この村に「奥山半僧坊」通称「半僧様 はん

ぞさま」が祀られ今も村人の信仰が続けられている。

この半僧様の祠堂は「東猪谷関所跡」標石後の岩山上に「金比

羅様」石祠とともに祀られている。写真①

昭和43から47年頃、故杉下清一氏と石仏調査に来たとき

写真②のような「奥山伴僧坊」の幕を伊藤銀太郎氏が奉納され

ていた。「半僧坊」の尊像は写真③④の砂岩製石像である。

  高さ30センチ・幅13センチ・奥行き12センチ、台座

(別彫)高さ7センチ・幅20センチ・奥行き15センチ 

この半僧様は垣下平六さん(離村)が昔、秋葉代参の折、半僧

様にお参りして御分身をお請けしてきたものだと言う。

  平六さんは自家所有の黒谷(くらんたん)左岸、小切山(こ

ぎりやま)の大岩上に祠を建ててお祀りしてしていたが場所的

に不便なので昭和35年頃、磯上氏が音頭をとり金比羅様の後、

現在地に移転安置された。

東猪谷は数次にわたり火災に見舞われている。

安政六年三月、60戸焼失、宝樹寺も焼けている。

明治一四年九月25戸、明治一九年九月13戸、大正一一年

九月9戸など相次いでいる。火災防護祈願に秋葉神社代参が

盛んだったのもうなずける。

 調査当時「半僧様」が何の神様か、わからず杉下氏は当時「

富山民俗の会」会長の故太田栄太郎氏に問い合わせたり、私は

図書館で仏像事典をあさったりしたがなかなか資料が見つから

なかった。  太田栄太郎氏は北日本新聞昭和56・4・21号

に「半僧坊が東猪谷にあることは意外であるが、文化の伝播を

示す一例といえよう。地元民も何の神様かわからないらしいが

おそらく県内でただ一つの野仏だろう」と書いている。

 二、鎌倉建長寺の半僧坊大権現

  ちょうどその頃私は妻と鎌倉旅行を計画していて観光案内書

を見ていたら、建長寺奥の院に半僧坊が祀られていると出てい

た。見学コースに入れて昭和49年10月10日に参拝してき

た。写真⑤_1、

写真⑤_2はその時請けてきた半僧坊尊像である。

高さ8センチ  ブロンズ製。

  添付されていた鎌倉建長寺の「半僧坊大権現縁起」は次のと

うりである。

半僧坊大権現縁起(抄)

  奥山方広寺(静岡県引佐郡奥山町)の御開山無文元選禅師

(五十五代後醍醐天皇の皇子)が当地の領主奥山六郎治郎朝藤

の御案内で、至徳元年(一三八四)の春、方広寺へ御入山の折、

途上白髪の老翁に会われました。この翁が禅師をみるなり「私

はこの山中に住い居る者、ここでお目にかかったのが幸い、ど

うぞお弟子にしていただきたい」と申しました。禅師は即座に

「氏、素性がわからぬのでは?」と口にされるや「いやいや禅

師のおっしゃろうとするお心持はよくわかっております。もし

私の願いをお聞き届け下さるならば今日からお仕えして末永く

このお山をお守りします」と答えました。禅師は又、「おまえ

はなかば僧形である」と口ごもられると翁は、大喜びで「私は

半僧です。又人からもさように呼ばれております」と、かよう

な禅師と翁とのやりとりがあって以来、禅師御在世中採薪、給

水、日々の作務万端怠ることなく随侍し、師の滅後その姿を消

してしまいました。その後山門に不思議のことが度々起るので、

その原因が、無文禅師が御遷化以来杳として消息を絶ったかの

翁にあるものと思惟し、当時京都の名仏師八木氏」を招いて真

影を彫刻せしめることといたしました。命をうけた八木仏師は

斉戎沐浴三七日参籠満願の夜半、半俗半僧、身長一丈余、面相

あくまで赤く、高鼻乱髪白衣に身をつヽみ、金色の袈裟を肩に、

木杖を携え、その姿あたかも猿田彦そのままの一老人を夢幻裡

に見た瞬間暁声に夢破られた夢を見、この姿こそ禅師御入山時

邂逅の老人の姿にまごうことなしと観じ、ここに如意円満の方

寸一尺八寸を基準とし謹刻された一体が現存、奥山半僧坊の御

真体であると「奥山方広寺記」に見えております。建長寺鎌倉

半僧坊の由縁は、今から三代まえの管長 霄貫道禅師はある夜、

お坊さんであるような、又俗人とも見える白い頭髪の老人と山

中で会いその翁が「私を関東のいづれか清浄な所に招いて下さ

るなら、その所いよいよ栄え、ありがたいことが絶ゆることが

ない」と告げて、フッと姿を消し去った霊夢をごらんになりま

した。この姿こそ半僧半俗の真姿で、建長寺鎮守に相応しいも

のとされ、早速、御自身自ら遠州奥山方広寺へお出むきになっ

て御分身を願われ、明治二十三年五月、建長寺内で最も景色の

優れた勝上嶽に安置されたものであります。後略

  半僧坊大権現真言   オン・ナンノウチリチリ・ソワカ

 三、神岡町麻生野 両全寺の半僧坊大権現

  神岡から平湯へ向かう国道471号線の左側、麻生野両全寺

の参道入り口に半僧坊大権現と書かれた標石をみることができ

る。  両全寺境内には双体道祖神や庚申塔があり何度か写真を

取りに行ったことがある。

本堂左側の御堂に半僧坊を祀ってあるということは知っていた

が御真体を拝んだのは平成八年五月一日半僧坊御祭礼の御開帳

の時が最初である。 祭日の当日、ちょうど神奈川県鶴見の道

祖神写真家椎橋幸夫氏を案内してきたら御開帳にぶつかり御真

体を拝観することができたのである。写真⑥_1

 遠州奥山半僧坊の御影    写真⑥_2

   奥山半僧坊大権現 

  古来不離深奥嶺意生

  化現自由仙十方雑土無間

  隔霊鑑光寒萬象前

   明治三年庚午五月

 特賜紫沙門七十二翁就水菘契

    明治三年の銘があるが標石の記銘は大正十五年である。

両全寺の歴史は享禄年中創立と古いが半僧坊とのかかわりは

新しい。

四、上宝村田谷(たや)の半僧坊様

  昭和50年8月3日、蔵柱地区出身、水本文夫さんの案内で

上宝村蔵柱地区田谷の「半僧坊の窟屋を拝観してきた。

写真⑦_1

   上宝村蔵柱川に沿う県道(国府・見座線)が田谷に入ると

田谷農協がありその近くから田谷・小萱林道に入る。林道約2

キロ登り尾根道を行くと半僧坊の窟屋に出る。

  『飛騨春秋』419号に池田勇次氏が「半僧坊の窟」を寄稿

しておられるので一部を引用させてもらう。

・この岩窟は、半僧坊の窟とか半僧坊様などと呼ばれています。

その由緒は田谷上野泉氏(七十一才)によると次のようです。

  私より四代前(明治の始め頃)の夫婦が、全く同じ夢を見ま

した。それは半僧半俗の行者が現れ、神社の裏手にある山の頂

上近くに、清らかな窟がある。そこに私を祀ってほしいと言っ

て消えたという夢でした。不思議に思っていると、その朝夢で

見た姿と全く同じ姿の行者が、お札を売りに来ました。そこで

村の人と供に、その行者を窟まで案内すると、行者の姿が見え

なくなったということです。その日が五月五日で、その奇瑞に

驚き早速奥山半僧坊大権現を勧請し祀ったということです。

そしてその年から養蚕の出来がよくなり、以来養蚕の神とし

て信仰が高まりました。お札 写真⑦_2

 五、終わりに

 以上東猪谷の「半僧坊」から始まり、鎌倉建長寺半僧坊を経

て飛騨神岡、上宝地区の現地探訪と文献あさりの旅を中間総括

してみたが民衆の防火、養蚕豊饒の祈りがテクノロジー万能の

陰でひっそり生き続けていることをあらためて実感した。

     注 ・大沢野町猪谷(東猪谷)

現在 富山市東猪谷となっている。

・神岡町は飛騨市神岡町

・上宝村田谷は高山市田谷                富山市笹津六区  平井一雄              

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