片貝川黒谷橋詰の七福神石塔

                            平井一雄

1、片貝川と黒谷橋

片貝川は立山連峰北部の水を集めて富山県東部を流れ、本邦屈指の急流で富山湾に注ぐ川です。

万葉の歌人大伴家持は、立山の勇姿に感動して短歌「片貝(可多加比)の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通い見む」を作った。歌碑のある魚津市黒谷(黒谷橋)の橋詰に石仏十一体の祀られている祠堂がある。後部三体の石仏、左は「樫藤神」と刻む昭和二十九年銘の文字碑、中央は獅子頭に座す文殊菩薩、右は笠部に三十二弁の菊花紋、台座に十六・十八弁の菊花紋を配す一石七尊石仏である。七尊仏の主尊は求聞持法本尊の虚空蔵菩薩で稲荷・弁財天・寿老人・毘沙門天・大黒天・恵比寿を配す。この七尊仏は伊勢朝熊岳(金剛證寺)正徳三年開帳の七福神であり金剛證寺印施護符絵像にそっくりである。七福神石塔の伝承がないか、この祠堂に同居している文殊菩薩・樫藤神・六地蔵を含めて近くの故老に聞き取りをした。六地蔵は黒谷の火葬場が廃された時移されたものであり「樫藤神」は樫と大藤が黒谷橋拡張で伐られ、その霊を封じた石神であるということであった。文殊菩薩と七福神は樫藤の根元に昔からあったという。文殊菩薩は山の神、七福神石塔は伊勢の万度さま(片貝川の水神)の一形態かと私は考えているが菊花紋は伊勢信仰のシンボルか、片貝山三ケ村木地師の信仰遺産ではないかと考えると更に興味が尽きない七福神石塔である。

2、七福神石塔

七福神石塔を考察する。

頭部の笠石には三十二弁の菊花紋を刻み、胴体部には七体の像容を刻む。下部台座には左十六弁、右十八弁の菊花紋を刻む。

便宜上、写真③-1のように七尊像に番号を付して像容を考察する。

1、主尊 ①虚空蔵菩薩

左手に蓮華を持ち、右手は与願印、冠を載せるが化仏はない。

『新纂 佛像圖鑑』には虚空蔵菩薩の像容が幾つか載せられているが、その一つに求聞持法の本尊として図1-1のような図像がある。その像容は「身は金色に作り、宝冠上に於いて五仏の像ありて結伽趺座す。菩薩左手に白蓮華を執りて微しく紅色に作り華台の上に於いて如意宝珠あり、吠瑠璃の色にして黄光焔を発す。右手復與諸願印を作す、五指垂下し掌を現じて外に向く、これ興願印の相なり」とありて覚禅抄に図を出す。

『虚空蔵信仰』佐野賢治編 中村雅俊「虚空蔵信仰の伝播」によると、「伊勢朝熊山金剛鐙寺の本尊虚空蔵菩薩も秘仏であって、朝熊山と伊勢神宮との関係から伊勢神宮の遷宮の翌年に本尊開帳が行われるのが例となっており、これを式年御開帳と呼んでいる。従って二十年に一度のことであって、最近では、昭和四十九年にご開帳の法会が行われた。幸い、その昭和四十九年の式年御開帳の様子を川口素道氏が報告されているので、その記事から朝熊山の本尊について知ることができる」その像容について、「虚空蔵菩薩は五仏の宝冠を戴き結迦趺座せられ、左手に白蓮華をお持ちになり、右手は与諸願印といって掌を仰ぎ五指を舒べて下に向けています」と印されている。

天野信景の随筆集『塩尻』巻之四十九には「今年(正徳三年 一七一三)癸巳春三月十三日より百日の間 勢州(伊勢)朝熊岳虚空蔵大士開帳 云々 中略 もと真言求聞の霊場也……」とあり開帳目録には

 本尊虚空蔵大菩薩 明星尊天 雨宝童子

       中  略  勝峯山 金剛鐙禅寺

 と印されている。

以上のように像容についての資料から七尊の内主尊①は虚空蔵菩薩と推定する。

2、七 福 神

胴体部下部四体の内中央二体の仏像は一見して⑤恵比寿、⑥大黒天と見ることができる。七福神は通常、弁財天・毘沙門天・恵比寿・大黒天・寿老人(福禄寿)・布袋(吉祥天)を龍頭の舟に乗せた絵像知られている。( )内は入れ替わることがある。

『福神』「七福神の成立」喜田貞吉編より

「……更に翌正徳三年伊勢朝熊嶽虚空蔵大士開帳の際に展覧した宝物目録によると、七福神として、虚空蔵菩薩・稲荷大明神・弁財天・寿老人・毘沙門天・大黒天・恵比寿の名が見えている。これは自家本尊の虚空蔵を福神の仲間に加えて、新たに案出したものであろうが、従来重視した福禄寿・寿老人を一つにし、毛色の変わった布袋和尚を除いて稲荷大明神を加えたもので、選択むしろ当を得たものかも知れぬが、これが世間に流布したものとも思われぬ」

このように福禄寿・布袋を除いて虚空蔵・稲荷を加えた七福神を例示している。

黒谷の一石七尊像は①虚空蔵菩薩・④恵比寿・⑤大黒天を含むのでこの朝熊山七福神を参考にして解明して見たい。

① 虚空蔵菩薩 

② 弁 財 天        ・

八臂の天部が龍に乗っていると見る。

龍に乗る像容は仏像圖典では「妙見菩薩」があるが持物から見ると「弁財天」と思われる。即ち左手に宝杵・剣・鍵を持ち(矢が見えない)、右手に三鈷矛・輪宝宝珠を持つ(弓が見えない)八臂像である。また弁財天は水神として頭上に宇賀神としての蛇身(龍神)載せており、龍に乗っていても不思議ではない。七福神を乗せる龍頭の舟を表していると見てもよいのではないか。

           笠間良彦著『弁財天信仰と俗信』より

③毘沙門天

岩座に立ち右手に宝棒(矛)、左手に宝塔を持ち、鳥の形のついた宝冠をつける「兜践毘沙門天」と見る。七福神のIつとなって七難即滅七福即生の利益があるといわれ善行を重ねた人に財福を与えるという。多聞天ともいわれる。

④ 恵 比 寿

釣竿を持ち、鯛を小脇に抱える西宮恵比寿の偉容と見る。

日本創世神話では、足が立たない蛭子(ひるこ=えびす)が海に流され摂津国(大阪)西宮に流れ着き、漁師の守護神になったという。海から漂流の神「福=富」が来るという海の幸の大漁を連想し、鯛を抱える像容となったという。

⑤ 大 黒 天

大黒天は、摩詞迦羅(まかから)と音写し、迦羅は黒と訳され、大黒天の名が出たという。

インドにおける大黒天はシバ神又はその后のドルウガーの化身とされ、破壊戦闘を司る神とされている。また大黒天は万物生育の神ビシュヌの化身ともいわれ、仏教においても財福神としての性格を引き継いでいる。

「大黒天神法」には烏帽子を戴き、大きな袋を背負った一般的な偉容が説かれている。日本では大黒と大国主神が同一視されるようになった。

⑥ 寿 老 人

道教の信仰の中で、北極星のように南極にもこれに対応する星が存在すると考えられていた。この南極星の化身が寿老人で不老不死の仙術を記した巻物を持ち、その象徴である鹿を連れている像容が多い。福禄寿と同体ともいわれているが福禄寿は鶴を配している。いずれも人間の願望である幸福、出世、長寿の象徴を擬人化している。

(図3 高橋 徹・千田 稔著「日本史を彩る道教の謎」より)

⑦ 稲荷大明神

白狐にまたがる女神像で、向かって右の手に如意宝珠を待ち、左に剣を持つ。基根尼天(だきにてん)といわれる夜叉は仏教の稲

荷信仰の本尊として祀られている。

  (図212 笠間良彦著 「弁財天信仰と俗信」より)

以上のように解明した七尊像図2-2稲荷神 を七福神として図示した。

この図4を柳沢栄司氏に提供したところ、後日「日本の美術№218仏教版画特集に図5の朝熊岳御影があるということをご教示いただいた。

3、伊勢朝熊山金剛証寺と雨宝童子

図5より黒谷七尊像石塔は朝熊岳金剛証寺の七福神御影の写しであることが判明した。

○金剛証寺

朝熊山(あさまやま)五五三メートル山頂近くに金剛証寺がある。朝熊山は紀伊山地の東端に属し、金剛証寺は伊勢神宮の鬼門(東北)に建てられたといわれる。

欽明朝(539-571)のころ、暁台上人がここで虚空蔵求聞持法を厳修して霊験な力を得たことから、その後、多くの修行憎の行場となった山である。金剛証寺は真言寺院として平安、鎌倉期に栄えたが応永年中(十五世紀初め)仏地禅師が中興開山となって臨済宗になった寺である。この寺に天長二(825)年、空海が人山して密法を修行したとき、天照大神十六歳のお姿を感得し、一刀三礼して彫刻したという雨宝童子がある。

 

○雨宝童子

金剛証寺護符虚空蔵菩薩の左下に立つ雨宝童子は片貝川、早月川の洪水を防ぐ水神様(万堂様=万度様=マンドウさん)の御神体として川筋に祀られている。上島尻、吉野の万度様の語源は伊勢の御師の「一万度御祓」から発しているという。

参考『とやま民俗№19』水神様の万堂さん 広田寿三郎

『とやま民俗№20』水神「マンドウさん」の語源と性格   佐伯安一

また富山県内の神明社の御神体は雨宝童子のお姿のものが多いという。雨宝童子が神明杜の御神体となっているのは、朝熊山の御師(おし)がかかわっているといわれている。

「天乃岩から出現した仏 雨宝童子のことなど」長島勝正

『砺波市史資料編4』8神明と雨宝童子

 

○伊勢講は伊勢信仰つまり伊勢神宮の信仰集団である。伊勢神宮は本来皇祖神として皇室の信仰を受け、その庇護を受けていたが室町以降、伊勢神領は各地の豪族の領地に吸収され維持が困難になってきたため、神宮の神官のうち権祢宣層が祈祷師として各地の豪族を回り、寄進の取次ぎをした。この祈祷師が御師(おし)になり、寄道者は檀家になった。伊勢からこの御師が各地に下向し、檀家を増やして信仰を広めた。江戸時代に入ると伊勢信仰は全国的に広まり、伊勢講は各地に分布し、御師は各講を回って大麻(たいま)を配り、信仰の普及につとめた。この頃の庶民は、単独で伊勢神宮に行くのには費用の負担が大きいので、伊勢講で講金という形で金を積み立て、これを路銀にあて交代で伊勢参宮を行う代参講の形になっていった。

代表者は天照皇太神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の両大神宮に詣で、講員の数だけ神社を受けて、これを全員に配布した。

                       参考 日本石仏事典 昭和五〇年発行

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