砺波の石仏たち

日本の原風景である散居村(さんきょそん)の広がる砺波は、真宗王国でありながら石仏の造立が多い。それも地元の人々にとっては何気ない風景であるが、田んぼ道に豪華なお堂に中に鎮座する石仏に花が手向けられ、信仰心の篤さを実感することができる。庄川町を含めた砺波市では約1,350体の石仏があり、南砺市では約2900体の石仏の調査報告がある。この調査はたとえば砺波市では婦人ボランティアの方々が十年の歳月かけて調査されたものである。また南砺市も同じくボランティアの手による調査である。これらの石仏は全国的に眺めても多いほうであろうと思っている。

 私自身もこのボランティアグループと同伴し調査に参加させていただいた。それでこの砺波地方の石仏のあり様がわかってきた。それを整理すると

(1)地蔵が多い。

(2)江戸時代末から、明治期にたくさん造立されている。

(3)石材は主に地元庄川町金屋から採掘される緑色凝灰岩の金屋石を使用している。

(4)路傍の石仏でありながら、ほとんどお堂に入り管理者が周知されている。

(5)井波瑞泉寺太子堂に安置されている「聖徳太子南無二歳像」の模刻石仏が、多く展開している。

 (6)石仏の種類がバラエティーに富んでいる。

(7)石仏まつりが継承されているなどであろう。

石仏の造立の意図は,死者供養と境界つまり村境や四つ角などの境目に建立される場合が多い。

野にある多くの石仏は、江戸時代末から明治期にかけて死者供養のために建てられたが、それを造像したのが村の若連中つまり青年達であり、その銘文に「村若連中建之」とあることでわかる。地蔵祭りも昔は子供たちが中心であったが、最近は少子化などで細々と行なわれているが、明治期は違っていたのである。

 地域の若者によって建てられた石仏は、地域で長く大事に維持管理され、若者や子供たちによって祭りもされてきた。死は公のものとしてされていた。「死」そのものは悲しいものであるが、それを自分自身の「生」への応援歌にして生きたのである。明治の「若い衆」つまり青年たちは、そんな意味で、石仏を建てることに、「死」から「生」を感じ取っていたのかもしれない。

 砺波地方は獅子舞や盤持・草相撲・チョンガリなどの郷土芸能が盛んな地域である。これらは古い歴史を持つものもあるが、多くは明治期に起こったものが多いのである。砺波地方は真宗王国と言われているが、若衆報恩講などもこの時期に盛り上がったものである。将に明治はいきいきと息づいていたのである。石仏に接し触れることによって、死を身近に感じ、信仰に根ざした真の元気が明治時代の砺波の若者たちにはあったのではないだろうか。そんな内から燃えてくるような活性化した元気が明治の砺波を支え、元気な獅子舞の活力となり今日の豊かな郷土を造ったのではないかと思っている。地域に根ざした宗教とか信仰と言うものは、本来そんなはずであったのであろう。野や道端にたたずむ石仏にちょっと頭を下げるのも、すがすがしいものである。こんな素晴らしい情景と風土が砺波にあったはずである。

 数年前に私の所属する日本石仏協会の例会が砺波で行なわれ全国から五十名ほどの石仏研究者や愛好者が集ったが、砺波の石仏の素晴らしさは全国でもトップクラスであると多くの方々が評価を受けた。それは石仏の彫法や緻密で綺麗な石材はもとより、石仏そのものが豪華なお堂に入れられ、花が手向けられまた散居村の景観の中に大事にされていることに驚かれ、石仏に対する素朴な心遣いに感激されたものである。

 石仏と長く付き合っているが、その魅力は普遍的な大問題「死」について、そう重く考えず気軽に意識できるのが石仏ではないかと思われる。砺波の根源的な活力はこの信仰心に根ざしているのかもしれない。明治期の砺波の精神風土を知るのに石仏が最適で、それを認識し行動することが「砺波ルネッサンス」かもしれない。情報発信の激しい昨今であるが、石仏からの受信を真摯に受けることによって、自分自身を活性化させ、明治のラジカルな砺波の精神風土を再評価したいものである。

立山酒造前の石仏たち


立山酒造の前の駐車場には、観音堂がある堂内にはコレラ封じの薬師如来や、不動明王、地蔵などが納められている。お堂の右に石塔が立てられているが草相撲などの碑である。その中に、稲を担ぎ、鎌を持つお坊さん姿の石仏がある。これは実は稲荷大明神の石仏である。

立山酒造前の観音堂
大門の地蔵堂

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