飛騨の痔の神「秋山自雲神」  「飛騨春秋原稿」 平井一雄

昭和五十五年頃、『神岡町史』史料編購入のため当時神岡町立図書館内にあった編纂室を訪ねた。
ここで編纂室長の葛谷鮎彦氏と補佐役の林下安一氏とお会い出来た。
林下氏には、私が関心を持っている道祖神の案内をしてもらって感激した思い出がある。
町内の道祖神を一周して最後に麻生野 両全寺の道祖神を見た帰り隣接している麻生野神社鳥居のかげでひっそり立っている「秋山自雲神」という石碑を紹介された。              写真①②
 「これは痔の神様です」と言われたのでどうしてかと問い直すと「(あきやまじうんしん)と読むから痔とうん(こ)にひっかけているのだろう」と言われた。
其の後、何かの本で「秋山自雲神」を見たがあまり類例がないので忘れてしまっていた。
ところが飛騨春秋誌の御縁で飛騨民俗学会総会に参加するようになり、帰りの汽車時間待ちで高山市総和町の国分寺を参拝していると、
境内に「秋山自雲霊神」の祠堂があることに気づいた。              
幸い勧請の由来を書いた木札が打ち付けてある。           
文面はつぎのとおり
日本最初
 救療痔疾 秋山自雲霊神
当所安置の秋山自雲霊神は延享の頃より東京浅草山本性寺において祀る日本最初救療痔疾の霊神にして明治十一年高山の有志分霊を迎えて此処に安置せり。
爾来百年を経て堂宇破損甚しき為基壇をコンクリートで固め堂宇を修築し屋根をトタン葺きに改む願くは霊神威光自在にて後世信仰者の心願を叶え給はん事哉 
昭和五十三年五月八日 山主敬白

ところで最近東洋文庫五八八として刊行された山中共古著『共古随筆』土俗談語の中で次のような文章を見つけた。

浅草山谷に痔の神とて、痔を病む人の信仰する仏あり。
秋山自雲坊功雄霊神といふ。此の神に祭られし者は新川辺の酒屋の者にて、痔疾の為に死せり。この者遺言して痔を病む人あらば我れ療してやらんと、
延享元年九月廿一日を忌日とせるを見れば、其の日に死せしことならん。其の後迷信仰者多くなり、天保二年のことなりしが、
尾州侯痔の為に甚敷難儀なされし時、家従の者のすヽめにより祈願ありしに平癒せしかば、大に悦ばれ、神祇官白川家へ仰せて、
秋山自雲功雄霊神の称号を贈られしといふ。自雲坊の自、痔と音通より痔の神などと云ひ出し、今に至りしとい覚ゆ。
注 山中共古との書簡のやりとりを柳田国男は『石神問答』(明治44)として出版した。
また川口謙二著『祖神・守護神』痔の神より引用する。

痔の神 秋山自在霊神
『新編相模国風土記稿』の足柄下郡小田原宿代官町の項に、「北条氏の頃は代官小路と唱う。家数八十六 中略
○妙泉寺 法華宗。中山法華経寺末。大恩山と号す 中略▽毘沙門堂▽痔神社「神体は木座像なり」とある。
妙泉寺は現在小田原市本町三ノ十三ノ三十五にあり、本堂脇に「秋山自在霊神」が祀られている小祠がある。
これが風土記稿に記されている痔神社である。今は訪れる人も少ないが、かっては、寺の祈祷や薬でもなおらない痔疾の神として、
さかんに信仰されていた。痔の神の痔は地で地の神を祀ったものである。音が同じのため痔の神としての信仰が生まれたものと考えて間違いない。
岩井宏實著『暮らしの中の神さん仏さん』現代願掛重宝記には痔に御利益のある神仏として石川県金沢市卯辰山三宝寺の「秋山尊」が紹介してある。
私は未見であり機会を作って参りたいと思っている。
いづれにしても「秋山云々」の神様は痔疾の快癒を願う庶民の願いから祀られた神仏のようで、神岡町麻生野の「秋山自雲神」もそのひとつであると考える。
由来、来歴をご存知の方は、ご教示をお願いします。

富山県大沢野町笹津六区 平井 一雄

平成九年一月五日

「秋山自雲尊者、秋山自雲功雄尊霊とも呼ばれる秋山自雲は、延享元年(一七四四)痔病に苦しんで亡くなったという岡田孫右衛門の法名です。
岡田孫右衛門は、摂津国川辺郡小浜村(一説に安倉村)の造り酒屋に生まれ、姓は狭間といい、通称を善兵衛といいました。
長じて江戸へ出て、酒問屋、岡田孫左衛門の所に奉公しましたが、見込まれて岡田家を継ぎ、岡田孫右衛門と改めました。
三十八歳の時に痔病を患い、治療につとめましたが全治せず、ついに浅草山谷本性寺の題目堂に参籠して、法華経を唱え、病気の祈願につとめました。
しかしその甲斐もなく、七年間痔病に苦しみ、延享元年(一七四四)9月21日四十五歳で亡くなりました
。臨終に際して、『願わくば後世痔疾痛苦の者来って題目を信仰せば、われこれを救護し利益を垂れん』との誓願を発して瞑目したと伝えられます。
その後、痔を患う友人が、墓前に願を垂れたところ、完治したといい、その噂はたちまち広がって、痔疾平癒の信仰が生れました。
はじめは浅草の本性寺に祀られ、後に摂津国小浜村本妙寺と京都東漸寺に分祀され、更に後には、全国の日蓮宗寺院に分祀されていきました。
(奥沢康正「京の民間医療」から引用)
痔の信仰を取り上げた文芸作品としては、寛政10年(1798)江戸町奉行に任ぜられた根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が、
城中や市井で見聞した興味ある事柄を10巻に纏めた「耳袋」(みみぶくろ)の巻の四には「痔の神と人の信仰おかしき事」と題し
『浅草今戸穢多町に痔の神とて石碑を尊崇して香華などを供え、祈るに従いて利益平癒を獲て今は堂など立ちて参詣するものあり。』という一説がある。
(衣笠昭 大腸肛門病学会雑誌「わが国古来よりの肛門疾患治療の変遷」から)

ちくま学芸文庫 新訂 東都歳時記」(江戸時代の「東都歳時記」が原本)には、次のように書かれています。
「浅草山谷町本性寺、秋山自雲霊神開帳(痔疾を憂ふるもの、当社へ祈願をなすに果たして応験ありと言ふ。正・五・九月の二十日・二十一日には千巻陀羅尼修行あり)。」

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