富山県東部・新潟県境の文殊菩薩石像  平井一雄

報告 富山県東部・新潟県境の文殊菩薩石像    平井 一雄

1、はじめに

”三人よれば文殊の知恵”と俗にいわれている文殊菩薩は、モ(マ)ンジュシュリーといってサンスクリット語を音写して文殊師利または曼殊室利と書く。満州の地名はこの菩薩に由来するともいい日本では葛城山をその浄土とする。(仏教辞典)

普賢菩薩とともに釈迦の脇侍としてつかえ、釈迦如来の左側にいて知恵をつかさどる菩薩とされている。『旧訳華厳経』第二十九菩薩住処品には「東北方に菩薩の住処あり、清涼山と名づく。過去の諸菩薩常時に中に住す。彼に現に菩薩あり、文殊師利菩薩なり、一万の菩薩眷属の為に常に説法して止まず」とあり、中国においては五台山がその霊地とされている。これらはみなこの菩薩が実在の人であることを示し、般若大乗の教えを大いに宣揚したとされる。

また「心地観経』によれぱ、「文殊師利聖尊三世諸仏の母と為す。」ともあり、すなわちこの菩薩は智慧の徳とされ、仏の覚はまことの智慧なので、諸仏の母と讃えられる。したがって普賢菩護と共に釈迦牟尼仏の脇侍として、その左側にひかえ、智慧の別徳をつかさどり、その猛威の象徴としての獅子の背に乗り、胎蔵界曼陀羅中台八葉院および同文殊院中央に配されている。またその形像としては真言の数により、一字・五字・六字・八字文殊とにわかれ、まだ髻(ケイ/カイ/もとどり)の数により一髻・五髻・八髻文殊などの別があり、その各々に利益が定められている。すなわち一字文殊は増益を本誓として出産・祈雨・止風雨等に利益があり、童子形にして一髻である。まだ五字文殊は息災を本誓とし、右手に智剣、左手に蓮華上梵筺あるを持する五髻にして、その造像例が最も多い。さらに六字文殊は滅罪調伏を本警として右手は説法印、左手ば施無畏印を結ぶ。また八字文殊は息災・調伏・天地異変等を本誓として右手に智剣、左手に蓮華上五股杵あるを持して八髻を結ぶものとなっている。石仏としての造像例は古く臼杵古園磨崖仏に座像があるが、信仰が盛んであったわりに石仏の造像は少ないといわれている。江戸期のものとして、智剣と経巻を持つ像、両手で経巻を乗せた蓮華を持つ像などが報告されている。

私は昭和40年代から富山県とその周辺の石仏を採訪している間に4例の文殊菩薩石像を確認したので『北陸石仏の会研究紀要』に報告する。

2、新潟県青海町上路 山姥の洞の文殊菩薩

新潟県青海町上路(あげろ)は中世に作られた謡曲「山姥」に出てくる地名でる。上路から白鳥山(1,287メートル)に登る道の中腹にある「山姥の洞」には信州善光寺に通じるという風穴があり謡曲の山姥が住んでいたと伝えられている。

近年、上路の里は足柄山の金太郎(坂田の金時)伝説とも結びつけられて全国の金太郎フアンに知られてきた。金太郎は山姥を母とし雷を父とするため赤い身体にして浮世絵などに描かれている。上路の里には金時のお手玉石やブランコの木、山姥の踊石などがある。私は昭和42年9月にこの洞窟に登り文殊菩薩石像を確認していたがカメラを持っていない時代だったので写真を撮っていなかった。

平成9年6月8日富山ハイキングクラブの公募清掃登山で白鳥山山姥の洞コースに参加し文殊菩薩石像に再会してきた。写真1

童子姿1髻で左手に智剣、右手に巻物を持ち左膝を獅子の背に乗せて、洞上岩座に西日を浴びて座す文殊菩薩は獣を友とする金太郎のように見えた。

「華厳経」には文殊菩薩が南方に人々を教化しにゆく話が説かれている。そのなかに舎利弗が海智比丘という弟子をつれてこの文殊のあとを追いながら、文殊菩薩の徳をたたえている話がのっている。

「文殊師利の行かれるところ、高い山や低い川も、石がごろごろしている道もみな平坦になってしまい、道の端に生えて、人を傷つけている茨やカラタチは、文殊師利が歩くと、きれいな花と変わっていく。災難や艱難など山坂の多い人生ではあるけれど文殊の知恵によって歩んでゆけばそれがなくなる。云々」また文殊菩薩は獅子に乗っていることから、獅子で文殊を象徴することがある。獅子は百獣の王で、恐いものが一つもないように、文殊の知恵によれば、すべてをあきらかにして畏れるところはないということをあらわしている。平成9年に山姥の洞へ行ったとき、行きは坂田峠経由、白鳥山で昼食、帰り道に山姥の洞へ寄った。55才の私にとっては艱難辛苦の山行でまさに文殊菩薩の歩かれる道であったけれども山の神でもある山姥を象徴する文殊菩薩を体得できて、今思えば得難い採訪であったと思う。

3,新潟県青海町市振墓地の文殊菩薩石像

先の上路の里へいく道は富山県朝日町境から境川を渡る8号線の橋の手前で右折し上流へ向かう。朝日町大平(だいら)という富山県側の集落で境川をわたり上路の里へ向かう。上路の地名は親不知子不知の難所を避けて信州へ向かう上の路(道)という意味を持つ。中世の謡曲に出てくるくらい古くから知られている地名である。

平成9年の白鳥山登山のときはバスツアーのためトイレ休憩で市振にある道の駅へ立ち寄った。休憩時間中に道の駅から見えた松林にある墓地を散策したところ写真2の獅子乗文殊菩薩があった。上路の山姥文殊を見る前であったから幸先のよい出会いであった。

5髻だろうか。右手に智剣、左手に智杵を持つ。墓地にあり地蔵座像とともにあるのは、墓石か供養仏かもしれない。

4、魚津市片貝川黒谷橋詰の文殊菩薩

『北陸石仏の研究会紀要』第2号に「片貝川黒谷橋詰の七福神石塔」を書いたとき、七福神石塔の左にある天の邪鬼か人面のような台座の上に座像のある石仏の写真を載せた。

座像の持つ持ち物は金剛杵というのか絵像でこのような持ち物を持つ文殊菩薩を見たことから邪鬼のような面は獅子面と判断し文殊菩薩ととした。

付近の人に聞き取りをしたが七福神石塔ともにこの黒谷橋の改修前まであった樫の木の大木の根本にあったということしかわからなかった。

七福神石塔は片貝川の水神とすると、この文殊菩薩は黒谷集落の山の神であったのかもしれない。

5,立山町下瀬戸の地蔵堂内文殊菩薩

北陸石仏の会の仲間尾田武雄氏と滝本靖士氏とともに立山町の庚申塔調査をしたとき石仏5,6体を詰め込んだ地蔵堂をのぞき込んだ。中に獅子頭様の顔面にまたがる石仏があった。金剛杵を両手で持つ像はやはり文殊菩薩と判断した。写真4

地蔵堂に納まる前の履歴は不明であるので個人の屋敷神であったのか集落の守り神であったのかわからない。個人宅で庚申塔祠や観音石仏祠が管理されている例が瀬戸集落でかなりあるのでこの集合石仏群も屋敷神であった可能性が高い。富山民俗の会あたりで集中調査されるのが望ましいと思った。

6、その他文殊菩薩石仏

写真は略すが大沢野町小糸にある無住の寺(集会所)に内蔵されている一石三十三観音に文殊菩薩が刻まれている。また大沢野町町長の旧家墓地には不動明王や大日如来石仏とともに巻物を持った石仏が1体ある。獅子には乗っていないので文殊菩薩と断定できないが可能性がある。

7,終わりに

文殊菩薩だけを追って採訪したわけではなく、山、川、水、墓地、集落、廃村などの石仏を広く見て歩く間に特徴を持った石仏が写真やメモに残ってきて自分に何かを訴えてくるようになってきた。まだ数体の報告である。石仏仲間に庚申塔、道祖神などの愛好者が多いがそれ以外にも見て欲しい石仏が多くあることを訴えたい。

参考文献

日本石仏事典 庚申懇話会編 雄山閣

石仏調査ハンドブック    雄山閣

仏様の履歴書 市川智康   水書房

仏像図典   佐和隆研編  吉川弘文館

仏像がよくわかる本 瓜生中 PHP文庫

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