井波石工七次郎 尾田武雄

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 井波石工の存在については井波町編『井波町肝煎文書目録 古文書』(昭和六十年刊)に「町中末々困窮に付助成願書」(三〇頁)が載せられ『井波町史下巻』(一一三頁)に全文転載されている。享保一八年(一七三三)三月に仁右衛門他二〇名が肝煎・組合頭・算用聞に対し、石山希望者に一五〇匁の役銀とひきかえで採掘させたものである。以後採掘権は、特定の人に与えられ売買の対象になった。それから延享元年には砺波市三合新の千光寺石塔が建立され、「石工井波善太郎」の銘が刻まれている。天明五年(一七八一)には、新たに石山を開き、北川村の石屋善太郎に一年銀二十匁で採掘権を与えた。文化三年(一八〇六)には「石工四人御座候」(『井波肝煎文書』)とあり、文化七年(一八一〇)には石山の採掘者は、甚右衛門、かじ屋又兵衛、義右衛門、清次郎、平蔵がいる。(『井波肝煎文書』)

 南砺市井波の隣地区に砺波市庄川町金屋がある。ここは石仏制作の祖とされる庄兵衛が越前国の石工について仏神彫刻の修業をしたのが文化十四年(一八一七)とされ、一生の間に一千体の石仏を作った明治の名工がいて、石仏の里のような感があるが、金屋石工より先行して井波石工がいたのであろうと想像できる。

 石仏に関しての在銘は、南砺市今里の神明宮に不動明王があり背面に「井波石工七次郎」「慶應二丙寅年正月」とあり幕末期の製作である。また南砺市福野の曹洞宗準堤寺には、秋葉大権現、金比羅大権現、不動明王を刻んだ石龕があり、横に「作井波石工七治郎」「慶応二年正月」(現在は、お堂に入り確認することができない)がある。また高岡市戸出町四丁目には坐像ながら高さ二四〇センチ、幅一二四センチの通称「デカ地蔵」といわれる阿弥陀如来坐像が大きいお堂に安置されている。お堂の前には石柱に「南無古中大地蔵菩薩」と彫られ、やはり石の由来板によると「安政六年(一八五九)から文久二年(一八六二)にかけ当地方に疫病が流行して止まることを知らず多数の病死者をだした。特に幼児が多く其の悪病退散を祈願し且供養の為に、古戸出村左官三吉 中之宮村桶沢又七が発起して大地蔵尊並びに尊堂の建立を呼びかけ町内住民競って浄財を持ち寄り井波町石工七次郎に石仏を依頼した。慶応三年(一九二三)五月大石坐像を完成した」とある。井波石工七次郎は慶応年中頃に活躍した石工である。この幕末期から明治期にかけて、砺波地方では石仏の造像がされるようになる。

(『北陸石仏の会会報』第六十六十八号 令和四年十二月十五日 北陸石仏の会)

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